日記12月
戻ります


12/31
日常に忙殺されて連続する現在が過ぎ続けるだけの我々の時間。
そこに何らかの文節を与えてくれるものが、暦と呼ばれるもの。
実際上の効果を何ら持たないことを承知の上で、その意味を認めて、我はそれに従いましょう。
残された時間に本年を振り返り、その意味をかみ締めて。
そして来年がよい年でありますようにと、願えるだけの希望を持たせてくださいと願いましょう。

12/29
慌しかった事々も、ひと段落着いてまいりました。
少々、放蕩息子の帰還といった風情が無きにしも非ず。
それにしても、ウインドウズのXPは便利になったものですね。
ケーブルを差し込むだけで、ネットの接続はおろか、LANの認識組織化まで自動。
ウインドウそのものがフリーズすることも以前より減ったし、仮にフリーズしてもOSには影響なし。
技術の恩恵です。
我のようにコンピューターは道具としか思ってない人間には、有難い事です。
今年は静かに本を読んで締めましょう。
「今後人間にとっては、詩と音楽こそ重要なものとなるだろう」と墓守も語ることですし。

12/22
冷蔵庫の中を整理しようと思い、マーガリンを使うと・・・・・・。
ブルーチーズの味がしました。
家具の処分を図りましたが、机・ベッド・鏡・冷蔵庫・洗濯機は古物商に引き取ってもらえず。
それら占めての処分費用2万円強なり。

12/21
明日月曜から、11夜連続で、「映像の世紀」の再放送だそうです。
客観的に考えて、「シルクロード」よりも意味の大きな番組。
私は西域は大いに興味を持ちますが、所詮は娯楽。
映像の世紀は、情報を媒介とすることで、我々に歴史の意味そのものを考えることを求めます。
ちなみに、有名だったのですが、このネタ分かります?
映像の世紀と関係ないですが。
昨日は、NHKの日本の安全保障に関する討論が、非常に有益でした。
出演者が、「後藤田正晴、中曽根康弘、大江健三郎」
まず、キャスティングが見事。
中曽根康弘が徹底的な現実重視、大江健三郎が理想主義、そして後藤田先生が深い見識と理念にもとずいたまとめ役。
民放の討論のように、知性見識に疑問のある出演者がいないのも素晴らしい。
中曽根氏の、ネオコンからパウエルへの権力移行の分析も説得力があり、政治を実際に運営した人間の重みがあります。
彼は、現実の運営と解離した憲法解釈は限界であり、改憲すべきとの立場。
大江健三郎氏は、理想主義でありながらも、「憲法」そのもの意味と役割から論を進めるので、聞いていて不快感を覚えることがありません。
そういえば、ノーベル犬福賞かとってましたっけ?
彼は、憲法制定権力から論を進め、制限規範としての役割を重視して改憲の動きそのものを留めることが憲法の役割と主張。
やはり、最高権威が後藤田正晴先生。
先生は、憲法の平和主義の理念を、憲法前文からケロッグブリアン条約にさかのぼって明らかにします。
そのよってたつ理念を明らかにした上で、現実に即した改憲の案および時期を提示しました。
(憲法が成分法典である以上、現状の拡張解釈の危険性を考慮して、時代に即した文言の改正は必要とのお立場です)
まさに、知性の輝きそのもの。
私個人も改憲論者ですが、その根拠は「憲法典」の文面から著しく解離した解釈が諸外国の不信を招くという点でした。
後藤田先生の指摘を受けて初めて気がついたのは、自身に改憲の積極的理由が見出せていないという点です。
「外国の評判を落とすから」という消極的改憲理由しかもたないわけでした。
より積極的に、日本の方向性を明らかにすることこそが、改憲のもっとも重要な前提なんですね。
えっと、この番組を見て唯一不満を感じたことです。
画面下に、9条1、2項の全文を表示するなどできなかったのでしょうか。
どうもあの討論は、(少なくとも)9条1項、2項の条文を暗記していないと理解が困難な部分が多かったと思うのですが。
(それ以前に9条の通説的解釈と政府解釈を解説する程度の情報も必要だと思ったのですが・・)
テレビの討論番組の最大の役割は、討論ではなく視聴者の啓蒙にあると思うところ。
私のような犬福でも理解できるように、心遣いがあってもよかったのでは。
無知は恥じる必要はないし、人間知識と方法論を理解すれば独力でいくらでも考えられるもの。

12/20
時間がなく、忙しい日々でした。
片付けとは、哀愁漂う作業です。
このときに考えていたのは、実に形而上学的な命題でした。
「人間の存在に肯定的評価を下すか否か」。
これが思想宗教を分類する上での、最高レベルのメルクマールとなるのではないかとふと思いました。
この様なことを考えていたのは、ビデオテープを分類処分箱詰めしていたときのこと。
GLAYの「サバイバル」のビデオクリップが出土したので。
久しぶりに一度見て棄てようと思ったのです。
内容は、女子高生が主人公のアニメをバックに、グレイのサバイバルが流れるもの。
一言で言うと、こんなお話。
無自覚な放蕩を送るなか、現実の意味を見失った彼女が、現実を新たに肯定した超人として覚醒。
(ニーチェの超人みたいですが、ほんとにそんな内容)
えっと、グレイの「サバイバル」の歌詞そのものも同内容。
正直な感想として、どうしたら自分を肯定できるのだろうかという疑問。
そこから冒頭の、各宗教思想につながるわけです。
宗教思想のかたちとして、人間存在を肯定するものと否定するものが存在します。
否定派の代表として、善悪二元論が存在します。
ゾロアスター教に始まり、マニ教など、今日でも統一教会など多くの新興宗教に見られる思想。
霊肉二元論(霊は光であり、肉は悪の創造物)を基にした、徹底的な現実の否定。
悪の被造物である体に囚われた霊と人間を把握するがその端的な現れ。
悪を抑制して善の勝利をもたらすには、肉である人は死ぬことが救済であり、当然に性交によって悪の勢力を増やしてはならない。
これは現実のゾロアスター教の教説です。(岩波の「グノーシス」何とかという本が出典)
その対極としての人間の肯定が、キリスト教と大乗仏教にあるように感じます。
キリスト教は「「からだの復活」を初め、人を神の似姿と把握することによる徹底的な人間の尊重。
大乗思想は知識不足でほとんど理解できませんが、なんとなく親鸞の「往生」とイエスの「神の国」が類似概念のように感じます。
つまるところ、救済は彼岸ではなく、この現実世界に存在するという理解。
私思うのですが、一見厳しそうに見える二元論の方が、遥かに安易な立場です。
現実を否定して死ぬだけなら、私でもできる。
この現実世界を如何にして肯定できるのか、しかもその苦難を十分に知った上で。
話題を戻すと、グレイの「サバイバル」はキリスト教・大乗思想と同じサイドに位置するわけです。
「サバイバル」自体は、秀逸なメロディーラインを持った名曲ですが、その価値の多くはそのことばにあると断言してよい。
深遠な人の実存に関わるテーマを扱っています。
もちろん難解な用語や概念は登場しません。
昔の私ならその時点でバカにしたでしょう。
しかし今の私はその点を誰にでも分かる普遍性を有しているという点で高く評価します。
この曲はが現実の肯定の道として示しているものは、おそらくその歌の持つメロディーやテンポを含めたエネルギーそのものなのでしょう。
聞いていると、確実に元気の出る曲だし。
人の実存という深遠なテーマは、所詮人が頭をひねったところで回答が出るわけではない。
これも説得力を持った謙虚な回答の一つです。
「我も主人公の少女のような力をもてますように。」とお願いしておきます。
そして神様、大人になったら立派な犬福になれますように。
今後、本の入手が困難になる(少なくとも大量の書籍を手にとって選ぶこと)ことが予想されるので、少々買いだめ。
「書物としての新約聖書」という8400円の本をためらわず購入。
私ゲームは安いのしか買いませんが、本に金は惜しみません。

12/15
人の命はそれ自体として尊重されるべきである。
この命題の究極的な論拠は、一体何処に存在するのだろうか。
「人を殺すべからず」という規範は誰でも知っていますし、各人各人がいかなる権利を持つかということも法規に記されるとおりです。
ここで問題となるのは、そういった些事の総体としての人の地位ではないです。
社会規範などの外部的要因が一切存在しない場合においても成立する人の地位、それが存在するのだろうかという議論です。
無論、諸権利の総体が人であって、それが擁護されるのは我々が人権なるものを想定したからだ、という議論は成り立ちます。
現在の我々の社会が採用するのはこの立場であり、我らの日本国も同様。
(憲法前文に自然権らしき記述はありますが、運用上においては上述のように評価してよい)
この価値判断の優れた点は、なんらの形而上学的命題を含まない故に、万人にとって了承可能であること。
そして暗に、人そのものが無力無意味ゆえにこそ、守らねばならぬのだということを教えてくれます。
でもやはりこの立場は、人そのものの尊厳の有無とその根拠に関しては沈黙を守ります。
直接的にこの問題を考えたのは、自殺と自殺予防の心理というサイトを閲覧していたとき。
「人の命は神が与えたものだから」という記述が当該サイトにおける、自殺抑止の大きな論拠の一つでした。
ちなみにこのサイトは、宗教的価値判断の含まれないものでした。
(他の論拠は他者との関係性におけるものであり、現在の問題とは関係ない)
人の尊厳の究極的根拠は、何らかの形而上学的要因に求めるしかないであろうことは私にも理解できます。
ただ、「命は神様がくださったもの」、といわれても、残念ですが私は理解できません。
「西洋の人は命を賜物だと考えているから、決して命を粗末にしない」と書かれていましたが、本当でしょうか。
幼少時から命を賜物と教わってくれば、そのように考えるようになるのでしょうか。
それはあまりに西洋の人たちを単純化した、失礼な説明のように思えるのですが。
尊厳の根拠として、機能的に賜物説を信奉するなら、それは現行の法体系と同じで、問題の解決にはなりません。
キリスト教の「賜物」説の説明は、以下のようになっているようです。
世界のあらゆるものの調和から、万物の起源たる統一的な秩序の存在を確信。
そして人間の持つ知性や自由意志の優れた働きを省みて、それが外部の権威に由来するものに違いないと考える。
これが概要であって、創世記には「神の息が吹き入れられて」、土(アダマ)が人(アダム)になったと記されているようです。
「息」とはことばを発する際に伴うもの、そして「ことば」背景に知性を伴うもの、そして「知性」とは万物を創造する生命の力、というロジックだそうでした。
つまり知性・意思を与えられた(自然的進化の結果獲得した事を与えられたと把握する)ことによって、人となったという理解の現われです。
これが、「命は神様がくださったもの」という命題の一つの説明のあり方なのでしょう。
万物の起源に単一の統一的秩序を見出す、キリスト教的説明にここまでは私も同意できないでもありません。
ただ、人間の知性と意志が、単一の起源(「神」という語をあまり用いたくないので・・・)と同質なものである、といわれると違和感がついてまといます。
私は純粋な物理的進化のみによって人の知性は発生したという現行科学の説明に何らの違和感も覚えないし、実際そのように考えています。
うーん。
これ以上は水掛け論になりそうです。
「そういう進化のあり方を用意したことそのものが、賜物なのだよ」といわれると・・・・・
それにホーキング博士のいうところの「人間原理」は「造物主」の別の説明のようにも思えるし。
やはり今の私は「命が神様の賜物」という命題は理解できないです。
理解させてください。

12/14

中央線飯田橋駅近く、外堀北側の東京理科大学隣です。
以前にたまたま発見したものですが、記念に。
リアルとは、我らの心の中にある姿。
写真はただの有形物、しかし我らに思い出す縁をあたえてくれます。
時は積み重なる。
B’zの最近(ここ10年くらい)の曲は全く知りませんが、「いつかのメリークリスマス」はよい曲ですね。
メロディーラインの美しさもありますが、そこに紡がれることばが美しい。
「彼」はきっと大人になったのだろうなあ。
思い出し、意味をかみしめ、それでも生きてゆく。
  いつまでも手をつないで、いられるような気がしてた。
  人を愛するということに、気がついたいつかのメリークリスマス。

12/12
プレジデントブッシュが、イラク侵攻に反対した国の復興事業への参入を拒否する声明を行ったそうで。
何をバカなことを、というのが正直な感想です。
ブッシュ氏は反対国に対しイラクの債権放棄を要求しているそうですが、それに同意しても復興事業に参加はできないとか。
債権放棄と引き換えに事業参加を認めるというのが、反対国・合衆国・イラクの全てに対してもっとも有利な選択肢であるはずなのに。
この合衆国の決定は、長期的には明らかに合衆国自身の国益にも反しているように思われます。
帝国を支えるものは、寛容性普遍性という理念であって、経済力軍事力ではない。
歴史は確実にこの様に教えていると、我は考えます。
確実にあの国は信頼をうしなってます。
まだ私は、合衆国の普遍性を信じているので、自主的に(政権が変われば・・・・)より妥当な政策判断を行うものと予想しております。
世界の多くの人は私と同じように考えていると思いますが、この信頼が失われたときにはあの国もおしまいです。
現代において、国際的安定と平和をもたらす手段は、相互依存を深め合うのみ。
本件の単純な政策でイラクを米国の経済圏に組み入れることができるのか、それは私は分かりません。
ただ、イラク人の反発はより強まることは確実だろうなあと。
それと本件声明は、日本やイギリスなどへのご褒美、という雰囲気も漂っていてやな感じです。
日本の真の国益は、イラクの中に親日家を増やすこと、これに尽きると私は思いますが。
そういう意味では、自衛隊は行くのが適当。
閑話休題。
あいも変わらず、「聖書を旅する」を読み続けてます。
私は信仰なき人間ですが、知的好奇心は甚大なものを抱いております。
対象を知り、その信条に同意できる部分とできない部分を見出してゆく。
現状では、ユダヤ・キリスト教要素中のかなりの部分が、宗教性から離れた普遍性を持つことを見出し大変な喜びを感じています。
そしてまた、その信仰の中核を占める、「復活」が理解できない(同意できない)ということも、明らかに感じられるようになりました。
もっとも、まだ知識は不足に過ぎるし、思考の水準も低きに過ぎます。
勉強だにょ。

12/10
「分割して統治せよ」
実に有効な統治方なんですね。
最近のイラク報道に触れるにつけ感じます。
もちろんこの場合に分割統治の主体であったのはサダムフセイン、分割は自国民を宗派部族に従って。
そして有効というのは、占領軍の統治を困難とするという意味において。
アメリカに一矢報いるというお子様的感情の満足。
統治の困難性故に侵攻を止まらせるという一般的心理効果においても。
たかが内政面での待遇の差に過ぎないものが、国民相互間の相互不信感を高め、国民統合による強大な反政府勢力の形成を妨げる。
サダムが出身部族を優遇したというのも、親分ずらにえらい思いをしたかっただけでなく、冷静な計算に基いた上のことだったということがよく分かります。
やはり独裁国家を維持できるからには、独裁者は相当程度に優秀な人材でなくてはいけませんね。
ただ、われ等日本人には「部族」という概念が全く実感できませんが。
そもそも、イラクは国民国家ではないし。
「国家、国民の統合」などというものは、今まで一度たりとも成立したためしがない。
侵攻の是非はともかく、占領軍は国民の統合という、初めての事業に挑まねばならないわけですか。
そういえば、分割統治とは帝国の対極に位置する概念ですね。
後者は国家構成集団の個別特殊性を肯定した上で、国政参加への機会を広く開放する統治形態。
前者は集団毎の待遇のあからさまな格差に、国政参加の機会はほぼ皆無。
私思いますに、イラクに西欧日本型の国民国家を形成するのは不可能だと。
国境画定自体が英米仏ソ等戦勝国の約定という不自然さ。
現実に見ても、スンニ派シーア派半々に、膨大なクルド人。
今の占領軍がやってるのは、反サダム派を優遇してるだけ。
国政参与の機会を徹底的に開放する以外に、安定の方法はないと思うところでした。
GHQのころのアメリカは、本当に日本をよくしようと真摯な改革を行ってくれたと皆に感謝されたのに。
(少なくとも私は感謝しますし、改革の動機がアメリカの国益であることは問題ではないです)
今回のアメリカは、どこか違う。
最後に。
分割統治による被差別側であり、現占領軍下で優遇される人の中。
そこにも全イラク人の均等な扱いを主張する人が多数いるのは、人間存在の尊厳なのか。

12/9
googleでライ病について検索をかけてみました。
端的にいえば、症例の写真を見たかったから。
なにしろ「聖書」といえばライ病の記述が旧約からいっぱい。
ということで、中学生頃から「ライ病」には非常な関心があったのですが、その実物を見る機会を得ず。
唯一みつかったのが、ベトナムのハンセン病 Photography こちら。
写真が大きくならずいまいちです、(以前のNHL特集のハンセン病の歌人の番組の方がわかりやすかった)。
より大きな画像ご存知の方がいらっしゃったら、ぜひとも教えてください。
この欲求は、他人のセックスやプライバシーをのぞき見たいといった、嫌悪すべき浅薄なものではないです。
対象を知らなければ−特に外形上の変容をもたらすものなら−ハンセン病の差別の意味など分からないでないですか。
それにしても、少し前までは人類の一大業病として恐れられた病が、検索をかけても出てこないという事実は何を意味するのでしょう。
えっと、出てこないのは病状を写した画像です。
(ライ病、ハンセン病、患者、写真、症例、病気を組み合わせて結構探しました)
抗生物質によってライそのものが駆逐されつつあるというのは、確かに要因の一つでしょう。
そして国政の歴史に明らかなように、近辺までライの隠蔽隔離政策。
少なくとも情報隠蔽には、ある程度の成功を収めていたようです。
(ライ病すら隠蔽できないのに、たとえペンタゴンでも宇宙人の存在を隠蔽することはできないにょ。)
ただそれ以上は、隠蔽されるべきもの、という認識が差別・被差別の両サイドに存在することによるのではないかと。
いくら文字情報で病原や症例進行過程を認識しても、症例の画像一枚に如くはなし。
隠蔽が悪いわけではないというのは、私も理解できます。
そのまま次世代の誰もが知らなければ、ライ差別もなくなってしまう、という可能性は否定はできないでしょう。
実際、私の出身地方、富山県射水郡の新興住宅団地、における被差別部落の問題です。
富山県では「同和教育」なるものは行われておりませんでした。
私が初めて被差別部落の認識を持ったのは、大学の関西の友人と話したり、「ゴーマニズム宣言」をはじめて読んだとき。
以前母と話す機会があり、実家の近くにも、被差別部落の人々が集住する地区があることを初めて知りました。
(外見からは全く分からない)
この例の意味は、要するに、知らなければ問題の認識は起こらないということのみです。
でも、知らずに一生を終えるなど現実的ではないです。
正確な認識がないが故にこそ、ヒトラーのような扇動家が現れた場合に、安易に差別に走ってしまうということがあるでしょう。
それに仮に写真ででもライに免疫をつけておかないと、実際の患者に直面した場合に生理的嫌悪感を確実に抱いてしまうとおもうのですが。
勿論、写真を公開すれば悪用される危険があるのは理解できます。
コラージュに加工されて、画像掲示板に甜菜されまくったり・・・・というか、この程度ならまだかわいいか。
でも、厨房やドキュソは決して多数派ではない。
とはいえ、実際に病状を公開するとなると、多大な勇気が必要だろうな。
私が自分の内実を公開しろといわれれば、「その勇気をくださいと」願うくらいしかできません。
HIVのキャリアであることを告白される方は、なんと高潔な方々であることか。

12/7

巨大犬福が来るということで、本日逝きました。
まさに、それは存在します。
もう顔がゆがみっぱなし。
この世にもまだ生きてる価値があるなと、幸せな気分でした。
写真いっぱい取ってきました。
足としっぽがぴょこぴょこ動くんですよ。
先着20名サービスの、巨大犬福と一緒のポラロイド写真とってもらってます。
しかも一人目。
まさに、大きなお友達状態。
恥らう場面ではないです。
閑話休題。
最近素敵なサイトを見つけました。
ゲームの理不尽な点を強引に解釈するスレ、を整理したもの。
ウイザードリーでクリーピングコインの首をはねる秘密、ママハハやパピィが剣でガードされても無事な理由などなど・・・・
相当笑えます。
・再録ですが、True Japan
サクラの花が赤いのは何故?、日本人の死因は?、サッカーの起源は?
などなど驚愕の事実が判明します。
これも恐ろしく笑えます。

12/5
時のたつのは早いもので、もはや12月。
もし10年後に生きながらえていたと仮定すれば、そのころにはさらに一年が短く感じられるのかも知れません。
最近は本を読むのと、エスプガルダに精力を注ぎつつ生存しております。
得点とリスクのトレードオフが成立しているのはケイブの作品としては当然として。
見事なのは、緊急回避手段がボムではなく、敵弾の速度を遅くするというシステムを設けた点なのでしょう。
シューティングのボムは、プレーヤーが上達過程において使用頻度を調整してゆくもの。
自分の能力に応じて使用すべきものなのですが、この当然の前提を理解している人がほとんどいないのもまた事実。
それが敵弾を遅くするという機構なら、プレーヤーには自機を操作するという能動要素が残されているので、より上達が感じられやすいですね。
しかも、あそこまで敵弾が遅くなれば敵弾誘導に失敗しようが、極限まで無理なよけでやり過ごせるので事実上緊急回避と同義です。
危険な場面で敵弾を遅くすると、その直後に設けられた地点での(かなり効率の高い)稼ぎが実行できないというのも、また見事なもの。
実際のところ、ボムが使えるプレーヤーというものは、ごく少数のうまい方に限定されているわけだし。
現状のシューティング=「パターン作成ごっこ」においては、ボムよりも優れた緊急回避方法なのでしょう。
敵弾を遅くすることのできる時間の制限を遥かに長くすれば、本当に誰にでもプレイできるゲームになるのかもしれません。
(たとえばスコアと引き換えに敵弾を止められるとか、敵に弾を打たせないとか)
シューティングが初めての人でも、自力で考える喜び味わえるようなゲーム。
テクニックは不要で、正しく考えることさえできれば誰でもクリアできるゲーム。
こんなのがあればいいですね。
その際はパッドでプレイ可能な、ウインドウズ環境で動作するものを。
閑話休題。
今読んでいるのは、「聖書を旅する」の5巻。
えらく難しいですが、考え理解する喜びを得られる本です。
とりあえず、従前に自分が作成したメモが誤解の集積であることは確実な模様。
私の犯していた誤謬は、いわゆる原理主義と同じで、「文字通りに」理解してしまう読み方。
それにしても、内容を要約してゆくという作業は大いに自分の理解を促し記憶の定着を助けてくれます。
そろそろクリスマスということで、街にはそれっぽい装飾や音楽が溢れるようになってきました。
数年前ラジオで聞いたところによれば、外国報道機関が東京の街頭装飾を調査した結果、唯一発見できなかったのが幼子の誕生の場面だそうです。
この報道には、「日本人は外面ばかりをまねつつ、その本質を何も理解していない。」という侮蔑が感じられました。
(正直に言えば、当時の私もそう思った)
でも多分、本質に戻れば上記報道の見解は間違っているのだろうなと、私は思います。
クリスマスで生まれる幼子の機能は、人々の心に和を取り戻すこと。
「二人、三人とお前たちが集まるところ。その中に私はいる。」と、彼自身述べているわけで。
たとえ降誕祭の意味を理解していない日本人でも、人々が家族が集まり温かい心をもつことは大いにあるでしょう。
この和合こそが、クリスマスで誕生を祝われるべき人の望みだったはずなのですが。
それを、「外見だけまねて」というのは、彼を殺そうとした権威筋の人々と同じ自己閉鎖の果ての姿ではないかと感じるところでした。
それっぽい言葉を使えば、「アンチ=キリスト」というヤツですな。
それだけ正しく解放された自由な心を持つのは難しいということか。
少々の知識と理解の多さによる優越感、その矮小な感情は誰もが、そして私も意識して回避するようにしなくては。
もっとも、この自機本義を忘れた無意味な商売が横行するのも事実。

12/2
少々前のことですが、「マザーテレサ」を福者に列するための審査が始まったという報道がありました。
面白いと思ったのが、叙階の要件として、「奇跡」の発生が要求されているらしいこと。
何でも本件では、「マザーテレサのおかげでガンが治った」とか、そういうやつだったように報道されてました。
昔から要求されている要件なので、やむを得ず、といったところなのでしょう。
どう考えてもとってつけたような「奇跡」で、苦労して探し出してきたという気配が濃厚です。
なんでも、教皇庁の奇跡の認定は、現在では恐ろしいほど厳格であるそうです。
あの有名な「ルルドの泉」でも、毎年何十万人もの人が訪れるに関わらず、奇跡と認定されたのはほんの数件だそうで。
(しかもどの例も同じ病気で、極めて稀に驚異的な自然回復の症例が見られるらしいです)
以上は些事で、本題に戻りまして。
最近分かったことはですが、「奇跡」とは本来的は「病気の治療」といった物理的作用を示すものではないらしいですね。
心の中に和を取り戻す働き、それこそが奇跡の本質であるそうな。
ちょっと昔(2000年ほど前のイエスの時代)には、病気は悪霊の働きと考えられていたそうです。
(源氏物語で加持祈祷やってるのとおなじ)
そこで、形式的には悪魔を追い払って病気を治したと当時の人々に分かるようにかかれてます。
でも本質は、その病んだ人の心に和を取り戻すことにあり、その結果として病気がいやされていることに過ぎないらしひ。
心の調和を取り戻すことで病気が治る、という因果関係は一概に了承しがたいものがあります。
でも、奇跡の本質は心の和を取り戻す作用にある、という点は私も同意できるように思います。
この程度の犬福すらわきまえている理屈ですので、教皇庁の方々は当然了承された上で、マザーテレサの奇跡を探されてるんでしょう。
なんとなく、本末転倒のような気がしますが。
でもそういった心理的な働きとなれば数も著しく多く、わざわざ認定するまでもないのかな。
奇跡とは、特別なことではなく、日々世に行われている事なのでしょう。
そこを「福者」(犬福みたい)に列するとなると、おかしな要件が加わってくると。
本件奇跡には疑いの声が上がっているという報道でした。
そもそもそれは物理的奇跡を要求するという要件そのものに対する疑念なのではないかと、感じられないでもありません。
実は私、マザーテレサってつい最近学研マンガ「マザーテレサのひみつ」みたいなのを本屋で立ち読みして初めてどんな人か知りました。
偉大かつ後世まで記念されるべき方とは思いますが、あやしい顕彰の仕方には疑念もあらずや。

12/1
少々前のことですが、「煌きのダイヤモンド」なる東京国立博物館の展覧会に行きました。
展示物は、ダイヤモンドの連続。
私、「ダイヤモンド」の実物を見るのは初めてです。
従前はダイヤといっても写真でしかみたことが無く、その価値が全く分かりませんでした。
透明なだけですから、やっぱり色のついたサファイヤやルビーの方がどう考えてもきれい。
それで、ようやくダイヤの価値が分かったわけです。
まさしく、あの「煌き」にあるのですね。
自分は化学は高1のときの「理科一」までなのでぜんぜん分かりませんが、なんでも屈折率が最も高いのがダイヤモンドだとか。
見た目としては、鏡のように光を反射しているように見えます。
その反射がまた、目を射るがごとくの一瞬の輝き。
たぶん、レーザー光線のように光線の経路がきれいにそろってるんだろうなあと。(科学的根拠ゼロ)
確実に理解できたのは、「ダイヤとは、光があって初めて価値を表すものだ」という点です。
他の宝石はそれ自体の色が美しいのですが、ダイヤは光を反射して人の目を射すくめることで始めて価値を持つ。
1200円払ってこれだけの理解を得られたのなら、決して悪くは無いかも。
(ちなみに、「大英博物館の秘宝」展は2時間半待ちときいてあきらめたのです)
もう一つ分かったのは、カッティングの重要性です。
ダイヤが人の目を射すくめることができるのは、ちょうど表面から垂直の角度を為す直線状に限られるようです。
ならば、やっぱりカッティングの面数が多ければ多いほど、目にダイヤの反射光が流入する確立も高くなる。
加工技術やダイヤの科学的特質など、体系的な説明が欠落していたのが、この展覧会の欠点だったかもしれません。
本日ガルダ3053万、残0、枠4.
いろいろと実験重ね無駄死にしてますが、その分スコアは上がったようです。
どうも、覚醒解放の位置さえ定まってくれば、安全パターンでも3500から4000万に到達するように思われます。


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