金正耀著、宮沢正順監訳、清水浩子+伊藤丈訳、 平河出版
我々は「道教」という名はしばしば耳にしますが、その実体についてはほとんど何も知りませんよね。
お隣中国の文化の重要な構成要素でありながら、その内容について何の理解も持たないというのは極めて残念なことであると思います。
幸いにして本書は道教を体系的かつ解りやすく解説したもので、著者も優秀な研究者の方です。
その内容をさらに簡略にまとめ、かつ私個人の思ったことを付加したものが本論です。
本論をお読みいただければ、「西遊記」「封神演義」等の中国古典をより楽しむことができるでしょう。
また、少しは道教についての理解も促進されるのではないでしょうか。
「道教」を考えることで、宗教とは、神話とは、日本とは、など様々な事項に対する重要な示唆が得られるものと思います。
なお、私個人の考えは本段落のように一段下げた形で、かつ斜字体で表記することと致します。以下の叙述は「中国の道教」の章毎の要約で時代順に書かれております。
解説、比較などが主たる私の付加事項です。
−道教とは何かについての概論−
この成立過程について、道教と日本の神道は同じであると感じます。
神道も初めは単なる自然崇拝でしたが、外来の極めて精密な体系を持った「仏教」との関係において初めて「神道」という概念ができ当たりました。
やはりその、哲学的というか神学的に体型化された宗教というもの、すなわち一神教や仏教などはその論理整合性という点でたの宗教に大きな影響力をもたらしますね。
それに対抗するには土着の宗教も理論武装するしかなくなるわけですから、道教と仏教の関係と同様の事象は世界各地で起こっているものと推測されます。
それができなかった場合、淘汰されて行くのでしょう。
この点極めて目標が現実的ですね。
解放としての解脱、復活と天の国など、他宗教の目標が彼岸にある点との差違が目立ちます。
私個人としては、現世利益に何の意味があるのかに疑いを抱きますが、このように考える人もいればそうでない人もいるでしょう。
少なくとも漢民族は極めて現実的であり、観念的ではなかった、と評価することはできるでしょう。
どちらが高等、という問題ではないですね。
−漢時代における道教の成立−
道教そのものの最初の教典は、後漢の「太平経」である。
−魏晋南北朝時代の道教−
この時代は、いわゆる道教が現在の形となった時代である。
−隋唐時代の道教−
隋代の統治者は道教をもり立てて継承発展させ、唐代には道教は国教となりました。
隋代に道教は仏教に及びませんでした。
唐代には、李氏(皇帝の一族です)は老子の子孫であるとして、道教は特別厚く保護されました。
この外丹は、原料として鉛・水銀・硫黄・砒素を含むものでしたから、人体には大きな害がありました。
−宋元時代の道教−
宋王朝は国力弱体で周辺異民族に対して常に劣勢に立たされており、続く元王朝は征服王朝でした。
宋王朝で重視されたのは、符ロク(竹かんむりに録)派という一派です。
−明清時代の道教−
総じていうと、明清両朝の500年間において、中国封建社会は次第に凋落し、やがて崩壊に至る。
−結語−
道教は後漢末に誕生し、そのころは反権力的存在でした。
内容も時代に連れて、おおざっぱに以下のように変化して行きます。
道教は始終、儒学・仏教と相互に浸透、影響しあい、それが中国伝統文化の三大支柱の一つとなりました。
道教は朝廷に依存し、皇帝個人の長生不死を追求する精神的欲求を満たし、皇権統治を神の如く絶対化する希望を満たし、そのふたつのことを永遠に継続することに服従しながら、封建統治者のために働き続けるのでした。
道教の思想内容と社会への働きから見るならば、中国伝統文化の支柱の一つではありますが、封建統治者のために奉仕したに過ぎない、との評価が妥当でしょう。
(紀元前3世紀〜紀元3世紀)
この書物は太平道、五斗米道(それぞれ三国志の「黄巾の乱の張角」と、「蜀の張魯」というと解るでしょう)等に影響を与えている。
なおこの時代の道教の教団はそれぞれ別個独立に成立し、相互に関連を持っていない。
この「太平経」は皇帝が国を治めるのをどのように援助するか、どうしたら太平の世が訪れるか、という点に中心があり、成仙不死にはほとんど注意を払っていない。
すなわちこの時代の道教と、後の時代の道教は全くその内容を異にしている。
つまり道教教団上層部は、統治階級の人々を引き込もうとし、彼らのために国を治め太平の世を造ろうとしていたのである。
その目指すところは儒学と同じであったと考えてよい。
(3世紀〜6世紀)
道教は「世をすくい太平をもたらすもの」から「化仙し不死を得るもの」へと変化した。
これにより下層部が武装蜂起に走りがちで統治者から敵視されていた道教は、封建体勢にとって適合的なものとなったのである。
恐らくですが、以前の道教が目指した地位には儒学が居座ってしまった結果なのでしょう。
その競争に敗れた道教は、異なる方針を模索したのではないでしょうか。
「抱朴子」を著述して煉丹学に大きく貢献し、道教が政治色を帯びることを好まず、儒家君臣父子秩序に反せず、封建統治を損なわない神仙道教理論をうち立てた。
いわゆる現在の道教の金型を作った人、といってよいでしょう。
煉丹学とは、道教の「成仙不死」を達成するための重要な手法の一つです。
医薬品(これを「丹」といった)の服用とその製造方法、と考えるとよいでしょう。
金属や鉱石の不滅の特性を人体に移すことができれば、身体は金石のように簡単に朽ち果てないものとなるだろう、という発想が煉丹の根底にはあります。
「丹」とは硫黄と水銀によって作られた鉱物であり、毒性の強いものでした。
それに関しては後ほど詳しく述べます。
彼は天師道(五斗米道と同じ、名前が変わっただけ)の指導者として教団の改革を行い、皇帝権力との関係を結んだ。
彼の最大の功績は、道教と権力との密接な関係をうち立てたという点にあります。
以後道教は、統治者の御用宗教として、密接な関係を保ち続けるのでした。
道教教典を整理し、新しい道教の戒律と儀式執行手順をまとめた。
彼によって初めて、従来はバラバラに存在していた多数の教団が、一つの「道教」として認識されるようになった、と考えておくとよいでしょう。
彼は信仰の対象としての神仙の席次を定め、信仰体系を確立した。
「神霊位業図」における神界の7層構造は、人間世界を反映したもの。
すなわち彼は、神仙の等級分化を理解すれば現実の貴賤の別を受け入れられるとして、封建制度を合理化するのである。
その目的はもちろん、道教をよりいっそう統治者に役立たせることでした。
このあたりに、神話や宗教の大きな現実的機能と意味の一つがあると考えてよいのではないでしょうか。
「封神演義」を読んだことのある方ならば、神々の間にも宮廷組織が存在し、最高神から使い走りの神格まで存在するという場面に遭遇したことがあるでしょう。
ギリシア神話におけるオリンポスの序列等が例としては適当かもしれません。
すなわち、神々の序列とは高度に政治的配慮によって決定されるものであるということです。
例えば征服民族が被征服民を懐柔同化するには、その被征服民の神格に、征服民の神話体系のヒエラルヒーにおける地位を与えればよいわけです。
たとえば、ゼウスの弟(兄の場合もあり)としての地位を与えられたポセイドンとか、オリンポス12神に加えられた小アジアの神格アポロン、アフロディーテのように。
この点多神教は便利ですが、一神教の場合にはそうも行きません。
先住民の神には、悪魔という名前が用意されているのみです。
上のアフロディーテは、ヘブライの唯一神の下ではではアスタロトなる悪魔になりましたか?
(抜け道として、聖人という便利なものも残されてはいますが)
話題を中国に戻すと、道教ではなんと神々にも宮廷組織が存在するのです。
相撲の番付表のように整然とした序列があるのです。
三国志の「関羽」や「諸葛孔明」も加わった楽しげなものです。
本当にこのようなものを信じる人がいるのか、現在に生きる私には疑問でなりませんが。
(7世紀〜10世紀)
道教発展の時代、と考えてよいでせう。
それは隋建国者の楊堅が寺で育ち、仏教に好感を持っていたからといわれます。
仏教が力を持ちすぎるのを嫌ったからでした。
ちなみに老子は、春秋時代の思想家であり、恐らく道教とは何の関係もありません。
唐代の道教は、以下の三点で皇帝に奉仕しました。
ただ道教ではこれを神格化しており、五斗米道の教典「老子想爾注」では「老子」に述べられる「道」を神格化して太上老君」と呼びます。
そしてまた、「老子」の姓が(皇帝と同じ)「李」であるというのは恐らくでっち上げであり、純粋な政治的利用です。
すなわち隋末に、「誰々に天命が下った」などの流言をばらまき、李氏の天下掌握を補助。
この点儒学の「易姓革命」という考え方も、いろいろかっこいいこといいますが要するに新たな権力者への媚びへつらいの理論化にすぎませんね、と思います。
統治者の神格化には、厳格な儀式が多いに役立ったようです。
詳しくはあとに述べますが、これが唐代の道教の最大の特徴でした。
隋唐時代には、煉丹術が道教の中心の如き様相を呈します。
煉丹術とは、内丹、外丹を含む仙人になるための方法です。
外丹とは、前述の「抱朴子」に詳しい、自然界の鉱物植物動物を原料として、金丹・還丹という薬品を製造するもの。
内丹とは、人体内部の精気神を原料として、人体を炉として練り上げるものであり、いわゆる「気功」に近いものと考えるとよいでしょう。
この時代に盛んであったのは、外丹の方です。
丹の服用によって命を落としたものも多く、その服用によってあの賢明な唐の太宗を含む多数の皇帝が命を落としたといわれています。
皇帝に不死の丹を与える、という名目で多数の道士が皇帝に取り入りました。
このように多数が命を落としながらも、それでも外丹に対する進行が失われなかったのは、死んだ人々は正しい方法を階得していなかったからであり、自分こそはそれができると信じていたからであるといわれます。
有名所では、あの始皇帝の「除福」でしょうか。
そのために皇帝は莫大な費用を費やしたわけですから、国が傾くのも道理です。
そうまでしても合理的な人間が、不死等という幻想に取り付かれるものなのでしょうか。
ちなみに皇帝にも賢明な人は多く、北魏の道武帝は死刑囚に服用させて試したそうです。
(その結果多数が中毒死した)
臨終の際に服用しても遅くない、と考えた皇帝もいました。
道士の側には、素晴らしいいいわけが用意されていました。
些細なことを書き連ねましたが、この不死をめぐる煉丹術は道教の中心として必要と思い、記した次第です。
丹を服用して死んだ人々については、それは本当の死ではなく成仙したのだ、といったのです。
このような神仙は「屍解仙」と呼ばれました。
信じる方も信じる方といった言い逃れですね。
「丹の神効」に体が耐えられず死んだ、という説もあります。
この煉丹術の歴史の中で、漢方等の薬学、化学変化等について莫大な知識が蓄えられたことは道教の大きな功績の一つです。
「火薬」も煉丹術から生まれたものだそうです。
(11世紀から14世紀)
動機は違えど民心掌握の強い必要性を持った両王朝では、その政治的目的達成のために道教が積極的に利用されました。
「符ロク」とは、神を招来し鬼を拘禁して悪鬼が人を犯すことを制止したり、災いを除き病を治したりすることです。
儀式を重視する符ロク派は王朝の神格化という点において多いに役立ったのです。
道教には、仙人になり不死を目指すものと、符録派という大きなふたつの流派がありました。
逆にこの宋代には、唐代に盛んであった外丹術は大きくその勢いを弱めます。
(こちらは主として、符ロク派の対となる、道教のもう一方の主流である成仙不死を目指す流れ)
宋代にも煉丹術は盛んでしたが、そこで行われたのは鉱物を人工の炉で加工する外丹ではありませんでした。
内丹学という、人体を丹を精錬する炉と見立てて精と鬼と神を人体内部で焼煉して丹とし、人を仙人にしようというものが、煉丹学の主流となったのです。
なお、この宋代には道教の最高神格が「太皇玉帝」という神格に変化しています。
人体を小宇宙に見立て、大宇宙は万物を生成する大きな炉であり、小宇宙である人体は小炉であるとした。
人体での煉丹には、天地が万物を生成する法則を理解しなくてはならない。
道は虚無より一気を生じ、次いで一気は陰陽の二気を生じ、陰陽の二気は続いて三体(天、地、人)を創造し、三体はさらに万物を盛んに生成する。
これは道が万物を創成する過程と順序である。
もしこれに反する順序によって修練したならば、終わりから進んで初めに至り、本来の出発点である道に到達し、道と合一できる。
道は永遠に不滅であるので、道との合一によって神仙となり不死となることができる。
以上、一人の人物の思想を詳しく引用しましたが、そこには神秘主義思想との強い類似性が見られます。
「道」との合一による成仙不死などは、神秘主義思想にいうところの合一体験そのものですね。
それに、万物創成の順を逆にたどって根本に至ろうという発想は、ユダヤ教神秘主義のカバラーの考え方と同じです。
宗教思想の根本には、合一という概念が抜き難く存在しているようですね。
その経緯が道教の本質を強くあらわしているので、ここに述べることにしました。
道教では、その体系を確立した陶弘景は最高神を元始天尊(万物に先立つという意味の、道教が創造した神格)とし、唐代には帝室の祖先ということで太上老君が最高神とされました。
宋の2代皇帝趙匡義は初代皇帝趙匡胤の弟で、これは父子相伝という皇位継承順にそぐわないものでした。
そこで太宗(2代皇帝)は、自分に「高天大聖玉帝」の命令が下った、との事件をでっち上げ、皇位の継承の正当化・合理化を図りました。
この事件に利用された神格「玉帝」はその流れて、道教の最高神に落ち着きました。
このとき趙匡義に玉帝の天命を伝えた神は「ヨクセイ」といい厚く奉られるのですが、彼の死後二度とこの神は霊験を示さなかったということです。
この事例のように、宗教が完全に皇帝権力の下位に位置したのが古来中華世界のようです。
元代には、全真道という教団が皇帝権力と結合して主流となります。
天命を受けた天子が統治するという中華世界の定義からいえば、当然といえば当然なのですが。
西欧世界の普遍原理であるキリスト教に相当するものが、中華世界では皇帝であった訳なのですから。
この点中世西欧世界のキリスト教の場合、少なくとも世俗権力は(名目的には)神の下に位置していたこととの対比が見事です。
ローマ教会の独立もありますが、何故にキリスト教は世俗権力への服従を免れたのか。
疑問ですね。
創造神への信仰という教義もその一因ではありましょうが、それだけではないはずです。
権力は常に、それを正当化する原理を必要とするからなのでしょうか。
西欧の場合はそれにキリスト教が利用されたので独立を保ち得たが、中国では皇帝そのものが天命という正当化原理を所持していたので宗教に頼る必要がなかったのでしょう。
道教の本質的目的は(佛教同様)個人的なものである成仙不死であるから、世俗のことなどどうでもよいのかも知れません。
中国道教の2大教団が、正一道(張角の太平道、天師道の後身)、全真道です。
この全真道の内丹学説が興味深いので、以下に引用してみましょう。
道教自体は、統治に有効であるために権力からの迫害はほとんどなく、安泰に存在を続けます。
ある時代に権力との結合を果たした教団は、次の時代には少々軽んじられて、また異なる教団が権力と結合して行きました。
どうでもよいですが、光栄の「ジンギス汗」に登場した南宋の超優秀人材「長春真人」はこの全真道の指導者「丘処機」でした。
動乱の時代において、道教指導者はいかなる権力との結合を果たすべきかという大問題に対処しなくてはならなかったようです。
大教団ともなれば、皇帝、周辺民族からの誘いの声は無数にかかる訳ですから。
この長春真人は賢明にも、次代のスーパーパワーとしてのモンゴル族の力を見抜き、それとの結合をなしえた優秀な人物なのでした。
人の心には「真性」が備わり、それは元神・元性・真心などと呼ばれるが、それは不変不滅のものである。
そして成仙の根拠はその上に置かれている。
以上です。
ここにおいて「真性」を「仏性」に置き変えた場合、それはほとんど仏教の内容と同じではないでしょうか。
このように道教は、仏教、儒教の教義をどん欲に吸収して行きます。・
思想的に節操がないですね。
哲学大系に意味はなく、成仙不死という目的の他はどうでもよいのだ、という考え方もそれはそれで正しいものかとも思います。
(14世紀〜20世紀)
この間道教は、どの分野でもほとんど新たな発展が無く、徐々に衰退していった。
この時代は大変に不思議なものです。
間違いなく世界最高の文化を誇った中華世界。
それがある時点で発展を止め、西欧中心の世界史に編入されて行きました。
最終的要因は経済力と軍事力の差違によるわけですが、その格差を生みだした原因は何であるのか。
火薬の発明、資本の蓄積、労働力の存在など、産業革命の下地は十分に備えられていたはずです。
いずれゆるりと、この分野を学んでみたいものです。
まあ、中華世界の歴史から見れば産業革命以後などたかが4世紀あまり。
異民族に征服された一時期と同じ程度のものでしかありません。
それが魏晋南北朝期に権力と次第に親和的になり、成熟定型化して行きます。
隋唐時代には皇室との結合で隆盛の頂点にいたります。
宋代には新たな発展の機運を示しました。
そして明清時代には、停滞衰退の道を歩むのでした。
初期には統治者のための太平術。
そして政治性を離れた個人の成仙不死。
権力との結合と、外丹術(薬物の服用による成仙)。
内丹術(心身修練による成仙)
道教は仏教からは、儀式教典など多数を吸収しました。
そして儒学からは、「忠孝仁義」という学説をほぼそのまま取り込んでおります。
金元時代の全真道は、出家修行と世俗の忠孝仁義の結合を提唱し、心を清くして自己の本姓を見つめることを「真功」、君主への忠義と親への孝行を「真行」とて、この2者が一体となって初めて得道成仙できると説きましたが、これでは実際的に儒教の変形に過ぎません。
逆に儒学、仏教は、ほとんど道教から思想的に吸収したものがありません。
そして王朝後退の時期には、道教も常に新たな奉仕対象を選び出し、政治的吉凶予言をねつ造するなどの方法を用い、その期に乗じて取り入るのでした。
以上、「中国の道教」の要約と個人的見解でした。
これで道教とは何か、少しはご理解いただけたのではないでしょうか。