本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
シリアからのジェルサレム解放と神殿浄化を成し遂げるも、世俗一辺倒の王朝(サドカイ・王党派)とファリサイ派の対立
ポンペイウスを助けたのが、アンティパタル(とその子ヘロデ)
BC734から701のイザヤ本人の時代。
北のイスラエル王国とアラムが同盟を結び信仰してきたアハズ王のとき。
万民の祝福と復活の約束
(北王国滅亡後の)ヒゼキア王のときに、アッシリアのセンナゲリブ王の18万の軍が一夜にして倒れた故事。
BC539のペルシャのキュロス王のバビロン入城のとき。
アブラハムの子孫でなくとも正義を行なうもの神に愛されているとのメッセージ(キュロスには「キリスト」の称号)
「苦しむしもべの章」、しもべが苦しむことにより万人が贖われることの預言
イエスの死後50日目に弟子たちに弁護者が下ること。
人祖の罪により本来の姿から去った人類が、再び神の息を吹き入れられることによって、神の似姿として戻ってくること。
「神の似姿」であるとは、「復活のキリスト・イエス」の似姿であることに同義である
イエスを「ことば」と解釈するならば、復活に一切の不都合はなくなる。
性質上「ことば」は死に得ないし、言葉は遍在するものだからである。
つまり「復活」は十分に合理的なものとなる。
しかしこの様に神話的合理性を持って復活を解釈すると、どうしても人間性がイエスに不要となってしまう。
(人間イエス=「ことば」という不条理な命題が成立することを回避しようと思うならば・・・)
視点を変えると、イエスが人性を持たぬならば復活は全く無意味となる。
定義上神が死ぬことはありえず、死すべき人に復活が約束されてこそ意味があるからである。
信仰の一つのテーゼとしてのイエスの人間性肯定の理由の一つは、ここにあるのだろう。
「聖書に書いてあるとおり」とは、「予告・予言」ではない。
即ち聖書の中の表現を拾い出してつなげてゆけば、「イエス像」「未来」が分かるのではない。
バチカン第二公会議は、啓示に関する憲章にて次のように記している。
神は全人類の救済を望み、そのためにイスラエルの民を選び出した。
即ち「聖書に書いてあるとおり」とは、「約束されているように」との意味である。
彼らが体験や預言者の言葉を通して神の道を理解することを媒介とし、全人類が神を知ることを目的としてである。
そして体験や預言者の教えるものは、人がゆるぎない希望を持つための救いの道である。
そして約束であるからこそ、人に信が生じるのである。
約束の内容は、以下の二者。
「啓示は各人各人に直接与えられるのではなく、神に選ばれた証言者とその後継者によって各人に与えられる、(ラーナー)」
プロテスタントはこの点を否定し、各人各人に直接啓示が与えられると主張する。
(行いは不要としたルッターの極端な見解は、現在はルター派においても修正されている)
ルターの生前既に、各人主義の信仰の派閥が30以上登場していたこと。
犬養氏はこの事実をもって、各人直接の啓示の否定の根拠としている。
しかしそれは啓示を曲解する人間の問題であって、各人直接の啓示の付与そのものの悪を主張する根拠とはならない。
人間に自由意志が与えられていることと同じ問題ではないだろうか?
有神論における神とは、全宇宙と生命あるものすべてのうちにあって驚くべき統一性を示すもの。
人間の場合には、生命特有の自己保存本能を破る行動すらとらせる精神活動の継続したエネルギー源。
これらを人間の言葉において、「神」と一応呼ぶ。
意思が自己保存本能を破るのは、単に意思によって行動を制御できることの結果に過ぎないのでは?
(たとえば、自殺だって自己保存本能を破っている)
しかし、「悔い」「許し」そしてそれらを求める心、これが自己の外部の権威に由来しているといわれれば納得はできる。
他者のために生きること、つまり互いに許しあい大切にしあうこと。
それは神が自己閉鎖性と無縁の存在であって、他と積極的に関わることを内実としているから。
そして神の関わりとは(愛とは)、約束と同義である(その内容は上記)。
論理的考察(例えば人に神の息が入っていること)や預言(エゼキエルなど)に、復活はほのめかされている。
神は人においてそれが成就されることを約束している。
この視点に立てば、イエスが人性を併有しなくてはならない理由が説明できそうである。
イエスが人として復活する面を持たなければ、人の復活の約束が成就しないからだ。
現実世界(肉・悪)のリアリティを否定し、それと無関係な霊(光)の世界こそ真実とする考え方。
知識・哲学によって救済が得られると主張するもので、ゾロアスターの時代から続く思想の系譜。
(例、「カバラー」において神の段階的認識による神との一体化を目指す)
その救済とは、現実世界を離れた霊的精神的なものである。
現実の否定という側面をグノーシス思想は基底にすえている。
キリスト教に適用された場合も、キリストの贖罪や神の受肉托身の否定という結論を導く。
集会堂においてラビの指導のもと法と預言書の特定箇所を読み、その部分が現在の自分にとって何を意味するかを考えること。
解説を加えるだけでは人々が「昔の尊い教え」とのみ考える危険がある。
そこで、法と預言書を今現在生き続ける言葉とする必要から生まれた制度。
ヘブライ語を解さなくなっていた多くのユダヤの民のために、聖書を国際語であるアラム語に訳し多量の解説を加えたもの。
(ダヴィッドは子孫に王が出ると預言されている)
神に愛され民を救った人(モーゼ・ヨセフなど)の出生を要約したもの。
使命を帯びた人間は男女の肉の交わりによってではなく、神の意思によって誕生することを示している。
(イエスの母マリアの場合も同じ)
人が産むものは人であるからである。
「神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執せず、自らを無にしてしもべの身分になり、人間と同じものになった」
この事を強調するため。
イエスは人となったのだから、人間の条件に従って幼児・少年と順次成長していったのである。
食は「生かすもの」としての神の働きの現れであり、イエスは最後に自らを「パン」として与えている。
「使徒達がイエスを神人であると理解したのは復活体を見たときであって、公生活中ではない。」
このように宣言している。
そしてそのことばとは、生命力であり、創造力である。
非宗教的にいえば、ことばの神話的表現がイエスということになる。
イエスは言葉であったからこそ、何処にでもいる。
ことばと実際の人間を結合することが、受肉托身という考え方なのだろう。
言葉であるが故に、それは遍在しうる。
そして「神の国」とは「在り方」である。
その在り方とは、ことばを受け入れること。
罪とはことばを退けること(ことばは「良心」というかたちで万人に与えられている)である。
許しを請うとは、自らの閉鎖性を解き、ことばに向かうこと。
許しを請うとは難しいことである。
それができたダヴィッド王は偉大であり、できずに自殺した滅びの子ユダこそは万人に近いだろう。
「復活」の教える「永遠の生命」は理解が困難である。
しかしことばに向かい自己の閉鎖性を解くことが、現世における理想の「在り方」であることは同意できる。
外の人々にはすべてがたとえで示される。
それは彼らが見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解せず、こうして立ち帰って許されることがないようになるためである。
この箇所は、日本語訳が適切ではない。
アラム語の原典においては、「たとえ」は「謎」の意味。
そして第二文の「ないようになるため」は、目的ではなく理由をあらわしている。
すなわち比喩の意味は次。
前もって聞かぬみぬと決めてかかる心は、他者と共に喜び悲しむことのできない心である。
茨の中に蒔かれた種のように、すべての善は失われ、育つことなく朽ちてゆく。
しかしそのような人であっても色眼鏡をはずして素直になるならば、許しと恵みは必ず与えられる。
この比喩における「敵」は、多くの詩篇中の作品と同じ意味。
「善に逆らう力」「死」「病」などを象徴的に表現したものである。
そして蒔かれる畑とは、上の「種蒔きのたとえ」と同じく、人の心である。
このたとえは、集団に対しても、一人の人間の内面に対しても妥当する。
そして我々が他人を評価する際にも同様である。
(俗に言うならば、規則一辺倒の全体主義的な教育にも妥当する)
このたとえは「悪」の存在理由の一つの説明となるかもしれない。
そしてその審判に人は過去の想い行為のみを携えて臨む。
自らの選択により、人は自らを裁くことになるのだ。
ペテロは、「あなた様こそはメシア、生ける神の子」と信仰告白をもって答えている。
この直後の受難予告に対するペテロの反応にイエスは、「サタンよ去れ」と叱責している。
これを初め、小娘の言葉にすらおびえきってイエスを三度も否むペテロ。
彼をはじめとする弱い弟子たちに対してのイエスの信頼は、(上のペテロのサタン呼ばわりの直後でも)変わらず厚い。
イエスのこの信頼の厚さこそは、聖書が民に示した神の約束である。
即ち旧約において示された、人に対する神の愛が、イエスにおいて再現されている。
この場面で重要なのは、イエス=言葉=神という視点である。
人性のみにおいてイエスを理解していては、上の場面の理解が普遍性を欠くものとなる。
ペテロの信仰告白の直後にイエスの語った言葉。
この言葉と合わせて、上の言明は解釈されるべきである。
即ちこの言明は言葉を説く側に立つ人間の責任の重さを述べている。
人と和するために積極的にリスクを負え、と命じているのである。
そして「7の77倍まで」(その意味は「無限に」)許しが与えられることを信じることが、人にとっての重要事。
それを信じてすがることができなかったからこそ、ユダは滅びの子となったのである。
イエスの仕事は、この二つであった。
「奇跡とは全能の神によって行なわれる自然法総則外のわざ。キリストが自己の信性の証明のために行なったもの。」
つい数十年前まで、カトリック教会はこの様に説明していた。
故にこそ、ブルトマンを初めとする科学者は、福音書中の奇跡は神話であって、非神話化が必要であると考えた。
(ブルトマンの「非神話化」は、福音書とは意味を汲む為の書物であることを明らかにするもの)
「お前たちの中で私が行なったわざが他の街で行なわれていたら、その町はとっくに悔い改めていたに違いない。」
イエスはこの様に語り、奇跡とは人々が悪を離れて心を善に向けて新しくするためのものであるとしている。
邦訳で「奇跡」とされる箇所は、ヨハネの原典では「セメイオン」(しるし)との語が用いられている。
そして「しるし」とは、メッセージの意味である。
(神殿から屋台商人を追い出したイエスを権威筋は、「こんなことをするのはどんなしるしを以ってなのか?」と形容)
何故に神は、死を殺すことができるのか?
「復活」に関わる宗教的意味は、理解が困難である。
しかし地上的意味でならば、次のように説明ができるのでは?
ここにおいての「死」は、有機体としての肉体の崩壊ではなく、罪(自己閉鎖)による魂の死を意味している。
ならば神の側から迷える魂に接近すれば、それは死の無効化となるだろう。
(「神が接近する」とは、心を開く機会・悔いを求める心・許しなどが心に浮かぶことの神話的表現である)
イエス自身は自らの行い(病の癒しや蘇生など)を、「エルガ・エルゴン」という語で呼んでいる。
そして「創世記」において、「創造」との意味で用いられるは、この「エルガ・エルゴン」なのである。
神の属性としての全能とは、「何でもできる」ということを意味しない。
何事にも依存しない独立性・充溢独立した存在そのものであるという意味である。
自らの生命と喜びのみを素材とし、それを分け合うためにだけ思いの表現である「ことば」によってすべてを無から創造した。
これが、「全能」の意味。
日本語訳として、「全能」を当てたのは著しく不適切なのでは?
万物を司る存在として人間が創造されたということ。
それは、人は万物の仲介者として創造に参加すべく創造されたということである。
祝福が与えられたのは、この経緯があるから。
即ち人は、「ことば」(思考と表現を持つ神の側の)の存在なのだ。
しかし人祖がことばを退けたことにより、人は生命から遠ざかった。
故にこそ生命に充溢した「ことば」が人として人間史に介入し、人の離脱を贖って新しい創造の天地を開く必要があるのだ。
精神は、遺伝子その他とは違うものだと聖書は断言する。
精神の成立を可能とする有機的機構そのものが自然発生することは否定していない。
そのシステム上にある「精神」という機能そのものは、自然発生によるものではないという趣旨だろう。
核酸・DNAを構成する物質をそのように集める力は何処から来るのか?
それは神(何らかの統一的知性)によるのではないか?
犬養氏はこの様に問いかけ得る。
「科学法則に従った物理メカニズムのみ、それによって核酸などは構成されゆく。」
このように回答することが、現在の自然科学によって十分に説明的であろう。
しかし次のような質問もまた、問いかけることが十分に合理的である。
「そのような統一性をもった物理法則は何処から生じたのか?」
即ちこの疑問において、冒頭の犬養氏の問題意識に戻るのである。
この解答に、意思あるものを想定するか否か。
無神論と「創造を認める信仰」(ユダヤ・キリスト・イスラム)はここで分かれる。
宗教的には、その単一なる起源の意志を、「造物主」・「神」と便宜的に人のことばで呼ぶのである。
信仰持たぬ一般人であっても、万物の起源の統一的な意志(規則性・知性でもよい)を認めることはさほど抵抗がない。
この主張こそが、信仰ある人とそうでないものの見解の相違点だろう。
創造は、今現在も行なわれている。
「天の父、神は今も働いておられる。だから子である私も働く。」(ヨハネ)とのイエスの言葉はこの認識を表している。
この様な人間のよき行いを、起源における万物の創造という物理過程と同一視すること。
神の似姿として人を理解することの現われでもある。
この把握もまた、信仰に特色的である。
これが三位一体の意味するところである。
造物主は水源であり、ことばとはそこから流れ出る水であり、聖霊は水を流す力である。
身をかがめて自らを無として、神自らが人間となったこと。
アウグスティヌスはこの様に説明している。(286)
「神の子」とは、この意味である。
「父と子と聖霊」という表現は、三位一体の表現として著しく不適切なのではないか?
前提知識がない場合には、偶像崇拝や多神教のごとき誤解すら容易に招きうる。
(なお、イスラームは造物主を認めるがその三位一体の在り方はみとめない)
神は人を信じて積極的にかかわりを持とうとしており、その創造のわざは今も続いている。
故に人はあい互いによい関係を築け。
(即ち、創造に参与せよという意味)
これが「GOOD NEWS」(福音)であり、それを知らせるのが聖書である。
以上です。