本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
「神は曲がった筆で真っ直ぐな文字を書く」
曲がって折れんばかりになった筆を切り捨てることも無く(マタイ・イザヤ)、曲がってざらついた筆を使いながら
万物の和合、すなわち人の救済を実現させる。
(神の思いは人の思いを超える、イザヤ)
イシュマイル(ハガルの子)がイサクをあやすをみたサラは怒り、アブラハムはハガル母子に何も持たずに去らせた。
ハムラビ法170条は、一度でも「わが子よ」と奴隷の子を呼んだ場合、その子の財産相続権を正妻の子と等しいと定めている。
また、メソポタミア法3条は、己の子を素手で去らせてはならないと定めている。
すなわち、サラ・アブラハムともに罪を犯している。
この場面での「罪」は直接的には法条の違反である。
「構成要件該当行為」という現在的意味の罪と考えてよい。
注目すべきは、アブラハムの時代には法条違反と罪(ここではsinに該当するもの)が同じと考えられていたこと。
初等教育の時代であり、まず第一に規則を与えてそれを守らせる、という段階から始まっているのだろう。
(神のことば自体は宗教という狭い次元に囚われない普遍性をもち、十戒とハムラビ法典の類似は強い)
それが後の時代になると、「罪」の意味が本質を帯びるようになる。
すなわち、「ことばに背くこと、背反・不信・自己閉鎖」という罪の無価値のゆえんが問題とされるようになってゆく。
イエスは同じことを逆の側面から「愛せ」と語っているのだろう。
神の愛はイサクの子孫に限られたものでなく、万民に与えられていることの示唆。
その意は、これ。
彼らに始まる人類の救済の道は人の力によって始まったものではなく、創造の働きによるものである。
(古代においては悪と考えられた不妊に神は勝つとの意もあり)
セム族に共通する発想法にのっとり、唯一神の持つ多くの力の側面(創造・主宰・導き・いつくしみ等)を表現したもの。
(ただし、注釈を入れていない聖書も多い)
そして「似姿」とは、以下の機能的側面においてであり、形態が似ているわけではない。
男女の平等性や個人の尊厳の根拠はこの点にある。
「人の持つ上述の機能それ自体」が個人の尊厳の根拠である、と考えることができるのでは。
地上的意味においては、「神」という存在を了承しなくとも、尊厳の根拠は見出しうるということ。
言い換えるなら、人の持つそれらの機能自体が神である、となるかもしれない。
「ことばは神であった」(ヨハネ)という命題は、私も了承可能である。
上の人の機能は、「ことば」そのものなのではないか?
神は無限定の普遍であるはず。
宗教という異質かつ閉鎖的実体、偶像のあらわす形態、そのようなものと自分は神を理解していた可能性がある。
はこの機能の尊厳をうたったもの。
この創世記の記述は、上述の意味を別の側面から表現したもの。
(ヘブライ語では、「歴史」と「産む」という単語が同じ)
原初に生命の木は、すぐに手の届くところに置かれていた。
それは、元来人は有機体である体が滅びた後に不死不滅の生に本来の姿を持って入ることを含意している。
すなわち創世記の序盤に既に、イエスの明かした「復活」が秘儀が記されている。
その喜ばしい死は、生明源を離れ去った後には恐ろしいものへと変化した。
聖書における「聖」とは、充溢した生命そのものである神のこと。
そして「浄」とは、ひたすらに神に心を向けようとする態度をいう。
いかにして神に心を向けるか、これを明らかにするラメに具体的なルールが初等教育において与えられた。
(神の望みを考えてそれにかなうように行動するという内面的なルールは、より後になってから)
イスラエルの民にとって最大の意味を持つ過ぎ越しの祭りは、家庭内で行われた。
すなわち女性はパンを焼き、青菜を積み、当然に祭儀に参加したのである。
神前における男女の平等性を示す旧約は、女性を対等とはみなさなかったギリシア文明よりもある面普遍性を帯びていた。
月経中の女性との接触が回避されるのは、生殖という聖なる働き(神は充溢する生命)の働きに参与する期間の女性を聖とみなしたから。
聖ゆえに隔離されたのであり、日本の民俗学における「ハレ」の状態と同じ。
ただし隔離という状態は、「不浄」の語を持って説明されている。
性のおきてをすべるものは全て「聖」。
しかし書はそれについて「お前たちの主は私、私は聖」とのみしか語らない。
では、「聖」とはなにか?
最初のモーゼに明かされた神の属性は、(偶有の対極としての)「存在」。
そしてそれを人は、「充溢する命」(「唯一」とは自存自立の意)と呼ぶ。
また、神を明かすことばであるイエスは、他者に暖かく誠実に接しよと語った。
では何故そのような態度が、「私を愛する」(神の国に入る=聖に入る)ことになるのか?
それは「神の生命は分裂とは無縁の一体性、愛であるから」。(123、ヨハネ17の23)
そしてこの命のあり方こそが、モーゼに開示された「存在」の内実なのである。
それ故に、イエスを愛する=他者と関わろうとすることは、神の生命の内実に重なるということで、復活に預かるということか?
「聖であれ、私主であるお前たちの神が聖であるから」(レヴィ記)は、創世記の「人を神の似姿として創造しよう」のリフレインである。
レヴィ記に記された神の属性(聖=お前の隣人をおまえ自身のごとく愛せ)を、「公正」という観点から記した書。
紀元前一世紀にアレクサンドリアで記されており、それまでのメッセージがより高められている。
「子を産み家計を継ぐ」よりも「心において神の正しさを継ぐ」ことが神の民を継承することであると述べている。
モーゼに明かされた「存在」、イエスの語った「分裂とは無縁の一体性」の別の表現
価値判断においては、この公正の不滅性を復活とよぶならば了承可能だろう。
それは文法上女性形であるが、父と呼ばれる神が性に限定されるはずも無く男女両性の側面を持つことの現れであろう。
神に抱き取られたい民と人を愛し抱き取りたい神との関係を、恋愛詩の形式で歌ったもの。
この物語の要点は、娘が自ら去っていったことであろうか。
ただし娘には、恋人が去ったように見えているが。
「惹きつけてください」の叫びが起こるのは、自己反省と選択の後に神の似姿としての己を認識したとき。
そして娘が恋人を取り戻す道となった自己反省と選択は、「思い出し考える」という行為を契機としている。
そして思い出し考えたのは、自らの内面に潜む罪悪の結果の弱さに気がついたから。
気がつくことのできたのは、愛の恵みの恩恵ゆえである。
何らかの実体が自己に影響を及ぼし、「気をつかせる」と文字通りに理解するのは誤りであろう。
苦悩の中で自ずと心中に沸きあがる認識、現実にあったものはそれである。
ただその認識の発生の契機を、自らの力によるものではなく、「恵みを与えられた」と理解する。
娘が選択の後に恋人を取り戻そうとしたとき、門番たちが彼女を打つ。
それは正しく生きる人には世の迫害が加えられることを含意している。
そして娘が後に恋人を見出すのは、復活の予兆なのだろうか。
当時の由緒ある家系のものは、必ず同族同系の家系から妻を選んだ。
すなわちヨセフがダヴッドの家系であるならば当然にマリアもダヴィッドの家系である。
したがってイエスは完全なるダヴィッドのすえであったということを当然に含意している。
万物は喜びとともに創造された。
しかし人は自らを判断基準とすることで言葉から去っていった(それが源罪)。
それ故に再創造が必要となった。
しかしその再創造は自ら去っていった人が自力で行うことは不可能であり、神の言葉の側からでのみ可能である。
それ故に人の精子によってではなく、神の霊による妊娠が起こった。
聖書は事実を語るものではなく、意味を語る書であるが故に、上記はロジックとしては成立している。
仮に地上的意味に限定したとする。
万物が創造によるならば、ヨセフとの性行為による妊娠であったとしても、それを創造の働きと考えることは可能だろう。
つまり、現実を解釈して意味の次元において把握するのである。
(人が自力では救われないとの見解は、信仰上の命題だろうが、人生経験によっても納得できるのでは?)
処女懐胎を上記のように意味において理解するなら、「世界の創造」も同様な理解が可能だろう。
世界は、現在の物理学が明かすように、ビッグバンによって始まり、通常の物理法則にしたがって進化した。
そこに通うロジックを、創造と理解するのである。
エリザベト(ザカリヤの妻)は太祖の妻三人と同様に、不妊であり閉経後の女性であった。
そこからヨハネが生まれたことは、不妊が罪であった旧約の時代が終わったことを示唆している。
「天の国のため、自ら婚せぬ者はいる」のイエスの言葉、(262)
それは子を産めないことは恥ではないし、むしろ子の養育にかける時間を貧しいもの孤独なものに仕えることに当てよ、という積極的な意味を持っている。
家系の存続が神の民の集まりの存続とはならない。
「アブラハムの後裔、イスラエルの子ら」の表現は言葉を継ぐという精神的な意味における人々をさしている。
「不信」が人の耳と口をふさぐことの象徴であり、バベルの塔の説話と同じ主題。
イエスは自らを水にたとえている。
(その他にも彼はしばしば自らをパンにたとえている)
それは自分を、言葉を信じるものは生きるということを直接的に意味しているのであろう。
(水・パン等の)食物は人が生きるに必要不可欠であるから)
「肉体として死のうとも、私を信じるものは死なない」ということが直接の意味。
「復活」という至極精神的な概念を除く地上的な意味においてなら、上記の命題は誰しもが納得できるのでは?
逆にいうならば、モーゼの過ぎ越しの意味はここにおいて明らかにされたというべきか。
以上です。