本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
詩篇は歌であり、歌とは心のほとばしりであってその点は万葉に同じ。(18)
万葉集は人が自然の厳かさに感動し、自然へと呼びかけたもの。
もしくは人が人に呼びかけるもの。
対する詩篇は森羅万象を取り上げながらも、その背後にある神に人が呼びかけている。
そして共同生活体の祝祭日の典礼など、公共の機会に唄われたものであって、パーソナルな領域にはとどまらない。
以上の二点が、同じ歌であっても万葉と詩篇の相違する箇所である。
また全聖書中、人から神への呼びかけという点においても詩篇は際立っている。
モーゼはシナイ山上にてかのように問いかけ、その回答の意味は以下。
「名」とは有形無形の物事を他と区別して言語で表した呼び名である。
この定義によるならば、存在そのものであるところのものには「名」はありえない。
かかる限界に囚われれぬ存在であるものが、「アブラハムの子孫」をわが民とするといった民族枠を設けることは理が通らない。
この民族枠が取り払われ、万人に対して「解放と自由と和と喜びを与えるもの」という神の名が示されるのはモーゼから1300年の後である。
出エジプトはキリストによる救いの前奏曲であった。
(イスラエルの初子はすべて殺すというファラオの命令を考えればその意味がよく分かるだろう)
「モーゼ」の名の意味するところは「引き出す」であり、「キリスト」は「救う」。
両者の対応関係は、名の意味にも明らかである。
教会という語は適切ではなく、本来の意味は「呼ばれて集う人の集まり」。
出エジプトの際に、モーゼを介する招きによって、人々はあいつどり共に食して共に歩み旅立った。
即ち神の望みは各人個別の救いではなく、ことばによって集まったまとまりとして人々を救うことである。
そして心の中の言葉に信を置いて旅立ったのがアブラハムであり、言葉にそむいた結果流浪の旅に出たのが人祖である。
それが侵入し、奪い取るものでないことが明らかにされるのは新約に入ってから。
その約束の地とは、死のもはやない体もろともの救いである。
それ故に神を讃えるという表現が詩篇にまま見られる。
それは当時の民の状態として、皆殺しにするかされるかという事態にあったということも一因である。
しかしそれ以上に、敵全員を殺し尽くすことこそ神の嘉すところと把握する価値を人々が共有していたという事情が大きい。
故にこそ「幼子まで殺す」という文学類型の表現が聖書に採用されているのである。
この書は中心的な教えとして「殺」を禁じている。
それは「神」が「聖」であるが故に、その民も「聖」であることが要求されるからだ。
そして「聖」の意味は(確定はされていないが最新の研究によれば)、(人とは別のより高次のあり方の)「属性」であると考えられている。
そして神は偶有の対極にある、生命に充溢した存在そのものである。
即ち、神が命そのものであるからこそ、レヴィ記は「殺」を禁じ命を大切にせよといっているのだ。
人はその悪用の可能性があるにもかかわらず、自由意志を持った存在として創造された。
それは人が祝福と共に創造されたこと、神の似姿であることに示されている。
そして人のとるべき道は、十戒やそれが基礎としたハムラビ法典にとどまらず、良心という形で全人類に与えられている。
この良心の声を聞くことこそ、神に従うことである。
また正しい道を十分に理解しつつ良心に背くことが、罪であり神への離反なのだ。
(ヘブライ語で「罪」を示す単語の第一の意味は、「正しい方角から外れる」こと)
即ち罪とは、自由選択能力の悪用である。
ヨシュアやダヴィッドの「皆殺し」の記述は、文学類型に従ったものである。
しかし同時に、自らの生存がかかっているという特殊状況下ではあっても、自己の殺を正当化した思い込みでもある。
(また、苦しみ恐れをほとばしらせて神にすがりつく心の表れでもある、(220))
「殺す勿れ」、これこそが神の真の言葉。
人を尊び、自ら選択して立ち返ることが望まれているから。
ただし罪と悪によって弱った人間には、自ら立ち返る力はない。
故にイエスのわざがあったのであり、人の選択とはイエスに信を置くことにある。
「立ち帰ることはできる」という許しの確証を与えられたことを意味するのだろうか?
十字架上のイエスは、人としての資格で(選択によって神の力を後退させて)万人のための苦を選んだ。
少なくとも人でなくては、我々人間が自分の代理としての犠牲に利用することはできないだろう。
その原型は捕囚の民の間で歌われたもの。
神の存在そのものを疑う不安と苦を唄うこの文学は、当時ウガリト地方に広まっていた苦の秘儀に迫る文学の影響を受けている。
この疑問は、「アンチゴネ」「ペスト」等と同じく、人類普遍の問いかけの現れである。
ヨブ記はそれに対し、以下のように答えている。
「地の基礎を作ったものでもなく、月日の運行を定めたものでもない人間にとっては、謎として残されている」
万物万象は語りかけるものの思いと力によって創造された。
しかも万物の起源であるからにはそれは唯一である。
この二つの「造物主の認識」こそは聖書を作った神感の第一であった。
(「神感」とは、積年の観察と思惟の結果であるところのものを、「啓示された」と把握する表現であろう)
そして言葉を含む万物は思いの表現であり、思いの表現は当然に喜びを伴うものである。
ならば人間を含む万物の創造は喜びを伴うものであったはず。
「思いの表現に喜びが伴う」との判断は、人間に類比して神を理解しているのではないか?
ただ、この判断がなくとも、人を被造物と考えることは可能である。
そして人の持つ「理性」と「意思」を以って「神の似姿」と考えればこそ、人から神へという推測が許されるのか?
聖書執筆陣は、神はイスラエルの神であり、イスラエルの民は神に招かれた特殊な民であると信じきっていた。
それにもかかわらず、万物の起源や人間そのものの描写で「イスラエル」という枠をはめ込むことをしていない。
普遍性を有する形而上文学として、聖書は描かれているのである。
造物主に対して、有為転変の世にあっても、世の力に引きずられてしまわぬように正しい道を歩めるようにと願うこと。
パリサイ派はその点を見抜いていたのである。
ユダヤ教の安息日は土曜日。
イエスは金曜に死に、日曜にたった。
(「三日の後に蘇る」とはこのこと、仮に十字架の死が金曜午後で復活が日曜朝であったとしても)
日曜日=Sunday=太陽の日
創世記の「光あれ」に通じ、イエスによる新創造を示している。
罪とは人の本来あるべき係わり合いから外れてゆき、相互関係が絶たれていること。
(良心というかたちで万人に与えられたことばに反することも、罪である)
罪とは元来の自分自身から立ち去ることであって、「楽園追放」の真意はそこにある。
即ち罪が最初に傷つけているのは、罪を知って行なったその人自身である。
「罪の行き着くところは死」(ロマ書)とはその意味。
そして、絶望こそが罪。
許すもの・生かすものである神の力を認めず、「許して」とそれにすがりつくことをしないからである。
イエスが人間の自由選択能力を尊重したことを示している。
十字架上のイエスの末期の言葉は、以下の成就を示している。
死と呼ばれる謎を滅ぼすわざが、そして人類の死から永生への過ぎ越しのわざが。
少なくともこれは、「神性」を帯びたものにしかできないわざだろう
以上です。