無力なる私


そのとき隣席の女性が私に話しかけてきました。
帰途につく途上の、営団地下鉄千代田線、表参道駅発車直後のことです。
私は復習でもしようかと、鞄から道具を取り出したところでした。
女性、「あなたは、法律が分かりますか? お願いします、助けてください。」
恐らく私の持っていたコンパクト六法に反応したのでしょう。
私、「私は学生で学問は不十分です、それでよろしければ、自分の理解の範囲内でお答え致しますが。」
どうやらこの女性、外見とぎこちない日本語からして外国出身の方のようです。
話を聞いて行きますと、事案は以下のようなものでした。
(事実関係は不明です、彼女の話の要旨です。)


彼女は日本人男性と結婚していたが、婚姻生活が思わしく行かなくなった。
そこで家庭裁判所の婚姻生活継続のための調停を受けた。
家裁による調停は下ったものの、夫方の弁護士が調停の結果を夫に伝えていない。
夫方弁護士は、夫に対して「あの女はあなたの財産をねらっている」と騙して離婚訴訟に持ち込む事をねらっている。(訴訟費用を請求できるから。)
そして彼女を夫から遠ざけ、一切の連絡手段を与えていない。
これは弁護士の不正行為である。
そこでなんとか弁護士を懲戒処分(弁護士会による)にかけたい。
そのためには弁護士が不正行為を行っていることの証拠が必要である。
いかにしてその証拠が得られるか。


まとめてしまうと伝わりませんが、彼女の困難の主因は婚姻生活の破綻にあるようです。
(私が質問したところ、彼女に婚姻生活継続の意志はあるということでした。)
ところが、主眼は途中から別方向に逸れて行きます。
上に記したとように、いかにして相手方弁護士をやっつけるか、こちらが目的になっていますね。


まず彼女は、「相手方弁護士が調停の結果を依頼人に伝えていないことは詐欺である」と主張します。
ここは一般人との法意識の差を感じさせる場面です。
刑法246条の詐欺罪が成立するためには、少なくとも欺くことによって相手方が何らかの出費をすることが必要です。
彼女が主張するように、「人を騙す」という行為そのものを処罰するものではありません。
倫理的には彼女の主張は正当です、しかし詐欺罪は財産に対する犯罪なのですよ。
このとき彼女はちょっと悲しそうな顔をしました。


そして彼女は、調停結果を夫に伝えていない事の証拠を求めて、相手方弁護士の事務所に足を運んでいるそうでした。
彼女は弁護士の不正を東京弁護士会に訴えたそうですが、不正の証拠を示せといわれたのだそうです。
この場合の証拠は、もっぱら当該弁護士にのみが持っているでしょう。
その点彼女の行動は正しいものです。
ただ、自らが不利益となる証拠を進んで提出する人間が存在するでしょうか。
彼女が訪れるたびに、当該弁護士は警察を呼び、強要・脅迫罪になると脅すのだそうです。
(主張が事実だとすれば)彼女の主張は道義的には正しい要求でしょう。
しかしなら、やはり222,223条の脅迫強要罪に当たる可能性は皆無とはいえません。
日本の法律は、現状の安定の保護をはかるものであり、たとえ正当な要求であっても犯罪に当たる可能性があるからです。
(たとえば、親の敵といって人を殺したらやはり殺人罪でしょう。)
このことを説明すると、彼女はもっと悲しそうな顔になりました。


この点に関しては、多くの事を考えました。


私は口では彼女に些細な刑法の話をしていましたが、頭は別のことを考えていました。
この場合に置いては、彼女の夫に婚姻生活の継続の意志は存在しない。
(彼女との話で分かったことなのですが、夫は株を売ったのだそうです。)
(有価証券の所持などから考えて、配偶者はある程度の資産を有しているです。)
彼女若くて美しかったころその男性と結婚し、もはや飽きて捨てられたのではないか。
彼女が中国人である点が、このことを強く臭わせました。
「奥さん、あなたが取りうる最良の手段は、離婚時に婚姻費用を少しでも多く請求することだけですよ。」と私の理性は告げています。
しかし私はこのことを口にすることができませんでした。
彼女のあの表情を前にして、私は無力だったのです。
真に依頼人のことを考えるならば、いかに辛い事実であってもそれを告げなくてはならない。
是が弁護士の職務なのだろうか、と思いました。
それどころか、私は彼女に「あなたの配偶者に婚姻生活継続の意志はあるのですか?」と尋ねることすらできませんでした。
これがないことには、何一つ分からないというのに。
客観的に判断して、彼女の配偶者にその意志がないことは明白でした。
そうであるが故にこそ、彼女を傷つけるに忍びなく、自分は発言ができなかったのです。


彼女の言動は、どことなく狂気を臭わせるものがありました。
まあ、愛情は人を狂気にも向かわせるもの、この点彼女に責任はないのですから。
そもそも、列車で隣の席の男が六法を持っているだけで相談を始めるといのは、通常のことではないでしょう。
無料の弁護士相談制度の利用を進めても、聞き入れようとはしません。
そして相手方弁護士懲戒への情熱。
心理学的表現によると、夫への憎悪がその代理人へと向けられた代償行為というものではないでしょうか。
彼女自身、分かっていながらも認めたくなかったのでしょう。
依頼者の真の利益を図るならば、弁護士とはこの次元から問題に対処しなくてはならない存在である。
無駄な職務を請け負って多額の手数料を受け取ることは、道義上許されない。

それと、法令上の義務違反がの存否は不明でしたが、当該弁護士はかなりワルですね。
少なくとも、警察を呼ぶ必要はないでしょう。
どう見ても彼女の「事務所に訪れる」という行為が業務妨害罪や強要罪の実行行為に該当しているとは認定することができません。 彼に義務が無いならば、そのことを一言説明してやれば済むことではないですか。
人をゴミのように扱って。
苦労して弁護士になった人間がこうなるのか、と思うと悲しくなってきます。


以上が私の体験のあらましです。
結局この事件は、弁護士懲戒のための証拠の入手手段はわからない、と自分が宣言して終了しました。
周りにいた人たちは、相当楽しかったでしょうね。(実際みんな聞き入っていた)
みのもんたの人生相談が生で聞けるようなものですから。
(少なくとも、当方は(みのさんよりも)はるかに誠実に法令に基づいて解答していました。)

そもそも彼女に話しかけられる前に私が確認していたのは、刑法241条の強盗強姦致死罪に殺意のある場合は含まれるか、というかなり些細な場面でした。

同罪は文言上は殺意のある場合を含まないように見えるが、そうだとすると殺意のある場合の法が殺意のない場合よりも刑が軽くなってしまう。
殺意がない場合は(241条で)死刑または無期懲役だが、殺意があると3年以上の懲役または死刑。(他説も多し)
こんな事をやっている人間に聞かないでくれ、とも思ったものです。
それでも、不動産の所有権とか、お金の関係ならある程度はアドバイスを差し上げられるかと思ったのですよ。
弁護士に何を相談すべきかなども、指針を差し上げられると思ったし。
家族関係とか証拠の認定って、本当に何一つ分からないのです。

私にとってこの事件は、かなり衝撃的な体験でした。
その日は帰宅後全く何も手に着かないくらいに。
表題の通り、自分の無力を嫌というほど痛感させられた事例です。

自分の感性のふるえを、多少なりとも伝達することができればと思っています。
彼女のあの壮絶な表情は、きっと一生わすれられないのでしょう。


以上です。

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