27文書を正典とすることが歴史上初めて現れたのは、アタナシオス(367年)のときであった。
すなわち、今日キリスト教として「聖書」の上に成り立つ宗教はせいぜいのところ2世紀末からのものに過ぎない。
ただ、この問いは発想の転換を必要としている。
この語が正典という意味で用いられるのは4世紀半ば以降、アタナシウスが27文書を宣言したのと同時代である。
概念そのものはユダヤ教に起源がある。
ラテン語の「biblia」に「bible」は由来しており、そのラテン語はギリシア語の音写である。
また、bibliaが単に文書という複数形抽象名詞である以上、同じく文書を意味する「graphai」はより広く用いられた。
ただし、キリスト教徒にとっての「graphai」がユダヤ教徒にとってと同様に「正典」であったということはない。
では、キリスト教徒にとって旧約聖書は正典といえるものであったか?
以上のように、旧約聖書の扱いは新約の著者といえども大きく異なる。
歴史上初めて正典を持とうとしたのは、正統派ではなく異端として排斥されたマルキオン派である。
マルキオンはこれによってユダヤ教との完全な決別を図った。
マルコは最古の福音書でありながら評判がよくない。
なお、四福音書の並び準の問題は、製本技術が発達して多帖本の製本が可能となる三世紀以降のことである。
パウロ書簡集についても、それを積極的組織的に収集し正典として確立しようとしたのはマルキオンが最初であった。
活動の主たる特色は霊とそれによる預言である。
1740年にミラノの図書館の司書ムラトリによって発見されたラテン語の断片である。
70年のユダヤ戦争(対ローマ独立戦争でユダヤが敗北している)によってディアスポラが発生したわけではない。
新約の全文書はギリシア語で記されている。
初期キリスト教団を形成したのはユダヤ人である。
しかしヘレニズム世界において諸民族はそれぞれの言語を用い続けたのである。
様々に異なった写本の読みを比較検討して大本の原文を確定する作業を正文批判という。
本文確定には、写本(及びその系統)の重要性に基く形式的判断、及びそれで決定できない場合の内容に基く判断という手法がある。
本文書は上記著作物の要約であり、筆者自身の理解増進と復習の便のために作成しました。
具体例を多数交えた非常に興味深い著作ですが、本文書では大筋部分のみの要約となっております。
論を進めるにあたって具体例の果たす役割は大きいものであり、さらには具体論にこそ本質があるともいえるでしょう。
本書は8400円と些か高価では在りますが、非常に楽しめるものであることは保証できます。
本文書によって内容に少しでも関心をもたれたら、是非とも原著の購入をお勧めいたします。
微小かつ多彩な事実の積み重ねを正直に、その意味を見つめること。
この方法論こそ本書の特色であり、そして原著者の田川健三氏の御主張もその点にこそ存在すると思われます。
なお、本文書作成に当たり私は本書を3度読みましたが、まだまだ内容理解には至らない点が多いことと思います。
また、(括弧)内の数字は本書の該当ページを意味します。
本書は新約聖書概論中の序説、即ち以下のような成り立ちを扱うものです。
「新約聖書の全体は、個々の文書と内容を離れた後のキリスト教の問題であるが故に、本書では扱わない。
聖書の内容はキリスト教史の問題であって、新約聖書の問題ではない。」
この言明に、筆者の田川氏の見解が端的に現れているといってよいでしょう。
即ち、我々が所与の存在と考えている聖書そのものが、実は通常の歴史過程の産物でしかないという事実が重要なのです。
田川氏はこの様に述べていらっしゃいます。
「護教論的な意図の強いキリスト教著作の大多数の目の届かないところに、本書の特色がある。」
新約聖書はもともとは一冊の書物ではなかった。
相互に関連がなく、しばしば矛盾する由来も著者も異なる27の文書が、執筆から300年かかって集められた。
その集合体が、「新約聖書」という名を与えられて一つの書物とされたのである。
すなわちもともと、正典でも聖書でもなかった諸文書が、一つの聖書正典としてまとめられた過程でもある。
まず第一に、正典を持とうとする発想が共有され、その中で正典とすべき文書のリストが共通認識として広まること。
この経緯の上に、アタナシオスの宣言はのっとっている。
では、それ以前の人にとってキリスト教とは何であったのか?という疑問が生じるのである。
すなわち、正典を持たなかった出発点のキリスト教とは何であったのか?
すなわち、広範かつ多種多様な歴史的現象から「キリスト教」を明確に定義することは不可能であるからだ。
そしてそれは、キリスト教が正典宗教すなわち書物に基いた宗教であるという認識に関しても同様である。
(今日聖書が強調されるのは、16世紀の宗教改革の影響といってよい)
それ以前では、教会で用いるべき文書の一覧表という意味に過ぎなかった。
モーゼのときに神がイスラエルの民と結んだ契約を破棄し、もう一度新しい契約を結ぶのだという思想である。
前6世紀のエレミアに現れている。
すなわち、イスラエルが正しい信仰を守ることができなかったために、モーゼとの契約は破棄され新しい契約が結ばれるだろうという発想だ。
最初期のキリスト教会は、自分たちの運動を新しい宗教と認識していたかさえ不明である。
ただ自分たちの運動を上記エレミヤの影響によって、神との新しい契約と呼んでいたのだ。
書物が「新約」と呼ばれるのは三世紀半ば頃からのこと。
すなわちこれは、従来の正典(旧約と呼ばれるもの)に加えて、自分たち独自の書を持つようになってその区別の必要が生じたからだ。
(一つならば、「book」と呼んでいればよい)
「biblia」は単数形であるが、ギリシャ語においては複数形の抽象名詞であった。
(単数形は「biblion」)
ギリシャ語のbibliaは単に「文書」の複数形に過ぎず、そこに聖書という意味はなかった。
初期キリスト教会はギリシャ語で始まったが、その語彙がラテン語教会に導入されるようになる。
その段階で初めて「biblia」が本来の意味を失って、単なる固有名詞(すなわち聖書)として認識されるようになった。
新約の文書とその内容がほぼ確定していたが故に、その諸文書を一つの固有名詞で呼ぶようになったのだ。
(時代的には3世紀)
(ユダヤ教が「書物」を「graphai」と読んでいたので)
ただしこの語は、旧約聖書のみを指していた。
ユダヤ教やその継承であったキリスト教にとって、「書物」と呼ぶに値するものは旧約聖書しかなかったからである。
キリスト教がユダヤ教からの新しい宗教としての自立を明確に意識していたならば、彼らは自己の信仰の根拠としていくつかの新約の文書を「書物」と呼んだはずである。
しかし彼らは独自の「書物」を持つことはなく、ユダヤ教の正典のみを定冠詞をつけた書物、すなわち聖書と読んでいたのだ。
(キリスト教の初期200年間のこと)
(その議論は後述)
以上から指摘されるべきは、キリスト教は正典宗教ではなかったという事実である。
(実のところ、明確に正典宗教となったのはルターの宗教改革以降)
まず「正典」とはそれによって自らの信仰・生活の全てが測られるべき絶対的な基準である。
イエス自身は旧約をよく知ってはいたが、それをかなり徹底的に批判している。
ではキリスト教徒にとってはどうであったのか?
彼にとってはイエスの存在そのものが巨大であり、他の権威など必要としなかったのだ。
マタイは正典的権威として旧約から大量に引用し、それによってイエスをキリストとして定義しようという姿勢が強い。
マルコにとってのイエスはユダヤ教の否定的克服であったが、マタイにとってのキリスト教はユダヤ教の順接的継続であった。
そして後者が旧約の権威を維持し続けたのである。
そして彼にとって旧約は正典的な権威でもあった。
彼はいかなる神学的主張であっても旧約聖書に基いて論証しようとするが、その論証の対象である福音は律法を終わらせるはずのものであるのだ。
彼は明晰に正典宗教の生命力の枯渇を感じ取っていた。
律法としてのユダヤ教すなわち正典的権威そのものの克服に努力したのである。
(矛盾する要素の共存がパウロの特色)
すなわちキリスト教はユダヤ教から旧約聖書を継承したが、それは厳密な意味においての正典ではなかった。
彼らの信仰の根拠はキリストのみであったが、外部のものにそれを示し論争する手段として旧約聖書を用いたのである。
初期のキリスト教著作者が旧約を予言成就の場合のみにほぼ限定してそれを用いている事実もこの事を示している。
キリスト教にとっての信仰の根拠はユダヤ教を否定克服したものであった。
そうであるのに権威ある書物としては旧約聖書のみを持つという自己矛盾を抱えていたのである。
つまりキリスト教は正典宗教を克服するところから出た新興宗教として始まり、再び正典宗教に戻ったのだ。
マルキオンは旧約聖書は既に否定克服された存在であり、それを権威として持つことの誤りを主張した。
旧約聖書的な影響をすべて排除し、キリスト教独自の文書を正典として確立しようとしたのである。
それまでのキリスト教は旧約という正典を持つことで自己を独自の宗教として維持しつつ、信仰の中核に生けるキリストを据えてきた。
それによって正典による固定化という弊害を逃れてきたのである。
この自由度の高さゆえにキリスト教は地中海世界に爆発的に発展することを得た。
しかしこの様な形態を長く続けることはできず、マルキオンは独自の正典を定めようとしたのである。
しかし、結果としてユダヤ教の形式の中心である正典宗教という性格をキリスト教に持ち込むこととなった。
こうしてマルキオンはが明確な「キリスト教」を持ったことに対し、正統派はそういう明確なものを持たなかった。
正統派はマルキオン派を異端として追い出すために、自己の優越制を示すべく正典を持つ必要に迫られたのである。
(マルキオン以前には独自の正典を持つという発想が全くなかった)
マルキオン聖書は福音書(ルカ)とパウロ書簡集よりなるものである。
現在の四つの福音書が統一性のある一つの正典として絶対的権威を主張されたのは、エイレナイオスの異端反駁論において(2世紀)。
現行聖書と同じこの形式は、マルキオンが始めて考案したものである。
彼はパウロ書簡やルカからユダヤ教の影響のある箇所を削除したが、それは当時の正統派の側の文書改竄に比すれば遥かにつつましい程度であった。
(マタイやルカは、マルコの改竄である)
この際に正統派は、自分たちのドグマに合わせて既存の福音書を改竄することを行なっていない。
マルキオンと同じ事を行なっては、彼を批判することができないからである。
正統派としては、四福音書が相互に大きく相違し矛盾しており、特にヨハネ福音書が基本的に質も異なるものであっても、4つをまとめて正典であると示す以外になかった。
思想の純粋性を求めるものは追い出しておき、既存のものを矛盾しようとごたまぜに権威として認めるのが正統派である。
正統派が結集するのは同じ純粋さに集まるのではなく、特定の異端を追い出すという目的のためである。
口伝の権威である主の言葉を、イエス本人や使途と直接の関係を持たなかったマルコが勝手に書物としたことのが批判されたのである。
(かつマルコは伝承の一部しか記さず、ギリシャ語も下手であった)
そしてさらに、マルコの描くイエスの姿が実像に近い正直なものであったことが正統派に都合が悪かったからである。
マタイはマルコを正統派ドグマに適合するように改竄したものであった。
ゆえに使徒マタイの著作ではないと知られつつ、当時の教会に歓迎され権威と認められたのである。
(ルカもマルコをドグマ適合的に改竄したもの)
それ以前は巻物もしくは一帖本で一つの福音書を収めるのみであった。
コデックス(多帖本)によって新約の諸文書を一冊に収められるようになったことが、目に見えるかたちでの正典化であった。
正統派はマルキオンのみならずグノーシス派までもが高く評価するパウロ書簡を積極的には評価しなかった。
しかし正統派内部にもパウロ書簡の浸透は大きく、排除するわけには行かなかったのだ。
そこでマルキオンのようにパウロ書簡を大幅に削除した正典ではなく、伝えられた全文を正典として採用することにしたのである。
マルキオン派は信仰の根拠を客観的な文書のみに求めた徹底的な文書中心主義であった。
対してモンタノス派は、神より遣わされて各自に宿る霊を行動の根拠とした。
客観的基準を持たず過去の権威に囚われない霊的宗教としての在り方を目指し、そのような活動を行なったのだ。
彼らは霊に基く新しい活動とそれに基く新たな書物まで生産した。
マルキオン派の独自の正典の確立と、モンタノス派の新たな活動の両方にはさまれて、正統派は独自正典の確立を迫られたのである。
新約として採用されるべき文書をその解説と共に一覧列挙した文書。
「異端」との名がつけば、マルキオン・モンタノス・グノーシス派を全て一緒にして悪口さえ言って排除すればよいという程度の低い正統派意識がいかんなく発揮されている。
現代の学者は古代正統派の文書の意味が通らなかったり間違いだったりする場合には、
ムラトリ正典表の著者は正典として採用されるべき文書の特色として、以下三点をあげている。
それを訳者や写本家のせいにし、原文は意味の通る立派な文書であったと想像してしまう。
しかし素直に、正統派は無意味な水準の低い文書を製作したのだと認めるべき。
使徒の著作もしくは使徒に直接関与した人が使徒の意見を意見を記していること。
無論新約の著者中に12使徒の記した文書は一つもなく、故に「使徒的」な文書は皆無である。
「ヨハネ」「マタイ」はそれぞれ使徒ヨハネ・マタイと何の関係もない。
ルカはパウロと交流はあったが弟子ではない。
マルコも使徒ペテロの思い出を記したものではない。
(そもそも「マルコ」は初期には価値が低いとみなされ続けたが、後にペテロの弟子ということで権威付けされた)
パウロその人は、イエスに直接会ったわけでもなければ、その主張活動を継承しようという意思もない。
ただしヘレニズムに進出したのはパウロのキリスト教であり、イエスの直弟子の影は著しく薄い。
彼らは後の時代に使徒の権威が強調されるに及んで引っ張り出されたのである。
(エクレシアカトリカとは、見えざる全世界に広がる唯一普遍の教会のこと)
パウロの書簡は個々の教会にあてて書かれたのであり、さらには特定個人にあてた部分もある。
ムラトリの著者は、以下のように宣言することによって通り過ぎようとしている。
「公同の教会の名誉において、教会的訓練の秩序のために書かれている」
諸文書は異なる著者が異なる内容を幅広い時代にわたって書いたものである。
それらが相互に矛盾なく同じ福音の真理を表現していると言い張るには無理がある。
正統派内には様々な文書を重んじる派があり、それを満足させる必要がある。
しかしムラトリの著者は諸文書の相互矛盾を認識している。
そこで彼はこの様に宣言する。
「福音書のそれぞれが異なったはじまり方をしているように見えるが、信ずるものの信仰には何も異なっていない。
同一で根源的な霊によって全てのことがすべてにおいて示されているのである。」
この強引な宣言によって終了。
理論を無視する図太さがなければ正典信仰など確立することはできなかったということである。
根源的な問題として、過去の文書を正典として読むこと自体が留意されるべき。
それでは過去の文書の真実の姿を見失い、それらの文書の持つ優れた意味自体を見失うことになるからである。
過去の文書を現実にそのまま妥当する永遠の真理として読むので、原文の意味を正確に認識するという姿勢を放棄し、現在の自分に都合のよいことだけを読み出すことになるのである。
正典宗教の根源的な問題といってよい。
ディアスポラはヘレニズム時代の初めから存在している。
ディアスポラが増えようと、パレスティナからユダヤ人がいなくなったわけではない。
パレスティナのユダヤ人はパレスティナに住み続け、ディアスポラのユダヤ人人口が増えたのである。
実際ディアスポラのユダヤ人人口は本土からの直接移民では考えられないほど巨大だったのである。
ディアスポラの巨大なユダヤ人人口は、ヘレニズム諸都市におけるユダヤ教への改宗者によって説明されるものである。
祖先はユダヤ人ではないが、ユダヤ教に改宗し、ユダヤ人ディアスポラでユダヤ人として生活するようになったのだ。
紀元前後の数世紀には、ユダヤ教の熱心かつ成功を収めたプロパガンダ活動により、ユダヤ教への多くの改宗者が発生していたのである。
なお、改宗者によるディアスポラの人口増加をイスラエルの国家主義者は強度に嫌がる。
それは20世紀になってからの「自分たちの祖国に帰る」というイデオロギーが嘘であることが判明するからだ。
そもそも戦争に負けたからといって敗戦民族がその国土に住めなくなるということはありえない。
(世界各地の日本企業の出先機関を、太平洋戦争に敗れた大和民族のディアスポラと考える人などいない。)
支配者がせっかくの支配地域から住民に逃げられては侵略の意味そのものが失われるからである。
住民(農民)の搾取こそが支配の目的だからだ。
「国を失った流浪のユダヤ人」という発想は、古代帝国の侵略支配について全く常識を欠いているといってよい。
そして今日のイスラエルのユダヤ人の殆どは、ディアスポラのユダヤ人の子孫である。
パレスティナに住むユダヤ人はそのまま今に到るまですみ続けた。
ただ、アラブの侵略によってイスラム化し、アラブパレスティナ人として今日呼ばれているだけである。
南アフリカのオランダ人やイギリス人の子孫の白人が、強大な軍事力を持ってイギリスやオランダに帰り、現地人を殺し追い出し、祖先の土地を返せと主張すること。
この仮定は誰が見ても著しく不条理であろう。
実はイスラエルという国家は、この仮定と全く同程度に虚構なのである。
ギリシア語は確かにヘレニズム世界の共通語として広まったものであるが、あくまでそれは支配者の言語に他ならない。
ギリシア語は支配者の地域支配の拠点として築かれたヘレニズム都市で用いられたのだ。
土着の住民はそれぞれの固有の言語を用いて生活していたのである。
そしてパレスティナで一般住民が用いた言語はアラム語であった。
当然にイエスが語った言葉も、その弟子たちの用いたものもアラム語であったのである。
ではそれが何故、ギリシア語で著作に表されることとなったのか?
その中にはアラム語を話す土着のユダヤ人と、ギリシア語を話すディアスポラ出身のユダヤ人がいた。
(ディアスポラはヘレニズム都市に存在したのであるから、そのユダヤ人は当然にギリシャ語を用いていた)
このことは使徒行伝の、ヘレニストの女やもめの食料分配問題に記されている。
この食糧問題は、ヘブライストとヘレニストのキリスト教理解の根本的な相違をルカが矮小化して描いたものである。
その相違は、ユダヤ教側の弾圧でヘレニストが亡命を余儀なくされたことに対し、12使徒を中心とするヘブライ人グループがエルサレムに残って宗教活動を続けた事に明らかだ。
初期キリスト教の思想内容は不明であるが、ヘレニストのキリスト教徒がキリスト教と共通項を持つのは神殿批判のみといってよい。
このことはステパノの殉教直前の演説が神殿批判に終始してイエスの名すら上げていないことに現れている。
ヘレニストはイエスが根源的な神殿批判者であることを知り、それに共鳴してキリスト教徒になったのだ。
ディアスポラに拡散したことに明らかなように、ユダヤ教は事実上神殿を必要としない宗教となってた。
そしてヘレニストのユダヤ人は経済人であった。
実際エルサレム外においては、神殿なしで信仰活動を持続する以外にないからである。
それにもかかわらず神殿が中心とされ(ディアスポラからの神殿税がユダヤ教の最大の収入源であった!)ていた。
ゆえにディアスポラのユダヤ人不満は高まっていたのだ。
ディアスポラ出身でありながらパレスティナに滞在することが、古代ローマ資本主義下での彼らの経済力の大きさを示している。
そして経済人であることは同時に、知識人であることを意味していた。
彼らの構築するユダヤ教の否定克服としてのキリスト教は論理的に極めて高度であり、アラム語を話す12弟子のキリスト教はそれに遠く及ばなかったのだ。
(しかも12弟子のキリスト教は大部分がユダヤ教につかったままであった)
そして地中海世界に拡散したのは、ヘレニストのギリシア語のキリスト教なのである。
本来のスタートの形であるアラム語のキリスト教は周辺に追いやられた。
ギリシャ語の宗教にとどまろうとしたキリスト教は、ギリシア語故に自身を限定することとなった。
すなわち、伝統的な民族生活を離れたヘレニズムの大・中都市の住民の宗教として自己を限定したのだ。
キリスト教が農村部(当時の人口の大部分)に拡散するのは、国教化されて国家権力によって農村に導入されてからである。
新約聖書は写本のかたちで伝えたれた。
そして原本や初期の写本は残されていない。
今日では、以下の形態で写本は残されている。
新約聖書の全体が整った形でかかれたもので、今日残っているのはいわゆる大文字写本が最古である。
現在新約の原文を復元する作業は、原則として大文字写本によっている。
最古のものは4世紀の写本であり、原本からはほぼ300年のときが経過している。
大文字写本とはいえ、新約聖書の全ての文書を含むものは少なく、「新約聖書の写本」という呼び方は妥当でない。
ヴァチカン写本、シナイ写本、ベザ写本、アレクサンドリア写本などが有名。
大文字写本というのは、全てが大文字で書かれていることからそのように呼ばれている。
小文字が発明されたのは中世9世紀のことであり、その利便性から一気に大文字に取って代わった。
(なおこの大文字写本の時代には、句読点や単語の間に空白を入れるという習慣もまだない)
新約の諸文書はそれぞれ別個のものとして作られ伝達された。
その過程で書簡・福音書・使徒書がまとめられていったのである。
そしてこれは正典結集の過程と対応している。
(大文字写本はみな羊皮紙のコーデックスである、つまり単巻のパピルスの巻物でない)
パピルスに書かれたギリシア語の新約文書の写本であり、大文字写本よりも古い。
パピルスの素材そのもの耐久性の低さから、今日では殆ど断片しか残されていない。
キリスト教がヨーロッパの支配勢力となって以降作られたものであるから数が多い。(2856部)
正統派教義内容に合わせた内容の改竄が多く、正文批判には重要ではない。
(ただしその改竄の過程は教会史においては重要である)
新約の写本は2世紀から15世紀にわたり、古代約や教父の引用も加わって精緻に発展せざるを得なかった。
(他古典では最多の「イリアス」でも100程度、「メディア」は10程度に過ぎない)
正文批判がなすべきことは写本の比較によってどちらが原文であったかを決することのみである。
失われた内容を想像力で補完するようなことがあってはならない。
わからない事は分からないと明らかにすることこそが、学問の仕事である。
写本の本文の意味が通じない場合は、原著者がそもそも意味の通じない文を書いている可能性を考慮しなくてはならない。
新約聖書は殆ど一つ一つの文について異読が存在するくらいに写本は異なっているのである。
優れた古典の作家が、まして聖書の著者が文書がへたくそで意味の通じない箇所があるという可能性を、信者は初めから考慮しない可能性があるからだ。
人間の仕事である以上は意味の通じない下手な文書を書くこともあるという可能性は常に考慮に入れなくてはならない。
(しかも古代においては、下書きなしに直接高価な羊皮紙やパピルスに書かざるを得なかったのだ)
そして古典を神格化した場合には、結果としてその著者を非人間的な宙空に追いやり、その書の中に現代人の支配的イデオロギーを持ち込むこととなる。
その殆どは冠詞や前置詞の用法の相違である。
しかし本文の意味内容そのものに関わる相違も決して少なくないのだ。
写本において文書が変えられるのは、無意識的な書き間違いの場合と、意図的な内容修正の二通りがある。
書き間違いは容易に判別できるため、正文批判において重要なのは意図的修正の場合である。
意図的修正には、本文を(文法的に)よりよいギリシア語に手直しする場合と、内容をよりよく修正する場合がある。
内容修正には原著者の単純な間違い(記憶違いによる引用先の間違いなど)を修正するといったこともある。
しかし重要なのは、時代の正統派の神学的傾向に合わせた、神学的な修正である。
(一般的に、コンマヨハンネウムと呼ばれる句)
ギリシア語の原文。
「証をするものが三つあります。すなわち、霊と水と血とです。この三つは一致します。」
それが後世に「霊と水と血」の部分が次のように訂正されました。
「地上では霊と水と血が、天上では父と言葉と霊です。」
すなわち、父と言葉と霊という三位一体のドグマを宣言する句が挿入されたのである。
(言葉とはロゴスであってキリストであり、すなわち「子」であるということにされている)
なおこの挿入は、1520年のオックスフォードでなされている。
歴史上初めてギリシア語の聖書を刊行したエラスムスに対し、三位一体ドグマを挿入させるために急遽捏造されたのだ。
「神の子、イエスキリストの福音のはじめ」
この冒頭の「神の子」は後世の挿入句である。
正文批判には、「より難しい読みのほうが可能性が高い」という原則がある。
すなわち、文法や歴史事実の誤り、教義に沿っていないもののほうが本来の姿であるということだ。
イエスキリストはまず「神の子」として信仰されるべき。
この後世の教会のドグマによってマルコ福音書が修正されたのである。
すなわち、「神の子」がないより難しい読み(ドグマに合致しない読み)が本来の姿なのである。
具体的な新約聖書の翻訳を扱う章立てです。
重要な指摘は本書他章とかわらず多いですが、個別論具体論が本章の構成であり、簡潔な要約が困難です。
従って本章の要約は省略です。
以上です。