参考、「神話解釈」の出展
「聖書を旅する、第8巻」、犬養道子 中央公論社
本文書は、表題著作の要約です。
自らの理解を確立し、同時に復習の簡便化を考えて作成されます。
概説書ですので、本文所も神道の諸側面を箇条書きでまとめるという形式を採用します。
なお、本論末尾の「神話解釈」は同書の要約ではありません。
同書に言及の乏しい神道教義の普遍性をまとめたもので、聖書を旅する、第八巻(犬養道子著)が出典です。
「聖書を旅する」8巻の内容理解のために、「日本神道のすべて」を読み返し要約。
これが本論の成立過程です。
上記「聖書を旅する」8巻のリンク先では、万葉思想を含むより高度な次元での、日本・聖書思想の共通性が考察されております。
聖書思想との比較対照により、より神道の特色が明らかとなって理解も進むものと思われます。
またより広範な理解をうる為に、そちらもご一読ください。
神道には、素朴に尊いものを恐れるという感情、および国家統合のための政治的神話、という二つの側面がある。
ただ、両者は判然と区別可能なものではない。
これが神道のわかりにくさの一因であろう。
平安京の衛生問題から生じた疫病や天災飢饉から、「穢れ」の思想が生まれる。
国民の同一性を特定の信仰に求め、その信仰を国が掌握することは、統治において極めて有効な手法であった。
神道国教化を推し進めるには、長年の間に集合が進んだ仏教と神道の分離が必要であった。
明治41年からは、全国の官幣社・国弊社の経費が国庫負担となり、府県社や郷社の祭礼費用は地方自治体の負担となる。
「神を敬い、国を愛し、天道人理を明らかにして、天皇を崇拝し、国政を遵守すること。」
第二次世界大戦の敗戦によって体制が崩壊すると、国民の不満は一気に神道に向かった。
教祖を持たない自然発生的宗教であり、確立された教義は存在しない。
それは価値体系や行動様式思惟形式の形で、日本人の生活に大きくかかわる。
前者は西行の次の歌が端的に示す。
「何事のおわしますをば知らねども、かたじけなさの涙こぼるる」
そして後者は、「紀記」に代表される、神話の世界観である。
後者は、天皇家の祖霊信仰に各地支配者の信仰を統合した結果成立したものである。
そして祖霊の信仰は、根源的には自然信仰から発展したものであるからだ。
また、前者の信仰(すなわち我々が初詣などに行く通常の神社の宗教儀礼)には、いわゆる教義や神話は存在しない。
神話とは政治的な必要性のもとに創造されるものである。
国家統合の役割が皇室神話によってになわれている以上、村や氏子の神社に明確な神話は必要がなかったのだ。
故にこの我々に身近な神社信仰は、祭りという行事以外の意味を持ち得なかった。
「かしこいもの」であればこそ神として祭られ、それが何であるかは明らかにされる必要がなかった。
(田の神・山ノ神で十分、そもそも我々は初詣を「神道」の礼拝とは認識していないだろう)
我々は神道といえば、神社を想像する。
しかし神話というと、誰でも知っているのは「アマテラスにイザナミ・イザナギ」。
この神話が身近な神社とどう関係するかが、理解困難なのが神道のわかりにくさ。
戦前の「国家神道」影響もあって、「神話」が語られることの少ない昨今。
ますます神道の認識が困難となっている。
土偶の意味
いずれの説にたったにせよ、縄文期と弥生期の信仰の間には巨大な断絶が存在している。
女性の出産力を大地に感染させ、豊穣を願う呪具。
(「呪」とは異なる物事の間の因果関係を認める科学と認識すればよい、有効性は別として)
土偶を身代わりに破壊することで、災厄をはらった。
(ほぼ全ての土偶が破壊された形で出土することに着目した)
土偶は神像
すなわち、縄文信仰は神道の源泉ではない。
縄文との文化的隔絶は、金属器試用と水稲栽培による、生産力の飛躍的向上にあった。
畏怖の対象であった自然を神格化した神が、縄文人の開発力の前に霊力を失い、消えていったのである。
(もののけ姫)
すなわち偉大な国祖を国の守護神として祭ったのである。
この様な各豪族の信仰が、大和朝廷の信仰に統合されてゆく過程(政治的頭語に伴って)
それが古墳時代の特徴。
古墳は死者の扱いが仏教の領域とされることで消滅した。
上述の政治的統合は、豪族の神が朝廷の神話の中で名を与えられる、という形で行われる。
守護神は仏教の役割となり、護国仏教が成り立つのである。(奈良の大仏など)
一方で、民間信仰の神々(かまど神、そこらの山ノ神など)は名をもたなっかた。
これが名を持つのは、農村の生産力が向上した中世以降
(大嘗祭や伊勢神宮の式年遷宮はこのときから記録に残る)
在来の信仰を中国の思想枠組みとして、中央集権体制に役立つ物とすることがこの改革の主眼。
(つまり確立の時点で、神道はすでに儒学仏教の影響が著しく大きかった)
(源氏物語を見れば、物忌みに血と死穢の忌避の発想が明確である)
この「穢れ」と「祓い」が神道に結びつくことで神話(政治)でなく、信仰としての神道の萌芽がもたらされた。
自然現象を「カシコキモノ」とみなし、それを「カミ」と呼んだ。
故に「カミ」の実態は極度に抽象的で漠然としたものであった。
この外来思想(ひいては外国)との接触によりはじめて、日本の信仰が意識される。
外来信仰の影響を受けることで、神道は自己の組織を整えていったのである。
なおこの際に、神道は儒学仏教といった先進思想の概念を借用することで、自己の思想を明確化していった。
仏教の受容の一つの形が、本地垂迹思想。
日本の神は、仏(本地)が仮に姿を現したもの(垂迹)と把握するのである。
(天照大神と大日如来の同一視)
神々の本地仏が定まることで、神道の神々には権現の称号が与えられる。
この思想を推し進めたのが、天台宗の「山王一実神道」、真言宗の「両部神道」である。
両部神道は密教の教理で日本の神々を解釈したもの。
大日如来が本地であり、諸仏諸菩薩は垂迹であるという解釈を、日本の神道に適用したのである。
すなわち、垂迹の神を高く尊び、本地の仏を神よりも下におく「垂高本下」の思想である。
しかしこれは、仏教の土俵において神と仏の序列を争ったものに過ぎず、神道の側には垂高本下を裏付ける思想がなかった。
伊勢神道の「神道五部書」、そして吉田兼倶の吉田神道である。
吉田は、神道が万物の根源であり、全ての宗教は神道から生じて神道に回帰することを主張した。
(明治維新後の国家神道につながる思想)
その後江戸時代には、(仏教を排し)朱子学による神道の体系化もなされた。
垂加神道と呼ばれるものである。
それは、アマテラスとその子孫が統治する道を神道とし、天皇皇室を絶対視する激烈な尊皇論に至ったのである。
これに対し、外来思想を一切排除して古道を明らかにしようという思潮が現れる。
古道を明らかにするには万葉集などの古語を明らかにする必要があるとされ、それが国学に発展した。
荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤といった国学者たちである。
(多大な影響を持った篤胤の思想には、日本が万国の源流であるとの皇国尊厳論があり、それも後の国家神道につながる)
(律令の時代から・・・日本の律令制には本家にない神祇官がおかれる)
開国という強度な外国との接触が生じた明治維新期。
それは国家統合の進められた大和朝廷の時代と同じく、強度な国民の統合が要請された時代である。
そこで神社神道によって天皇崇拝と軍国主義を統合し、国家統合の手段とすることを為政者は決断した。
(このときの神道とは、平田篤胤の皇国尊厳論に基づく、かんながらの道である。)
そこで「神仏判然令」が出され、神仏分離が進められたのである。
ただしこの勅令は、政府の意図に反して廃仏毀釈の運動をもたらすことになった。
フランス革命におけるカトリック教会破壊の場合と同じで、旧体制の特権に対する不満が爆発したのである。
そして神職が公務員となることで、神道の国教化は完了する。
しかし、一村一社制により神社の統合が進み(12万から8万に)、古くからの慣習や民間信仰の多くが失われた。
古道に戻るという当初の理念と、明治政府の推し進めた国家神道は大きな食い違いがあったのである。
この三条の教憲こそが神道の目的とされ、それはすなわち忠君愛国の精神を国民に浸透させることであった。
つまり、神道は宗教ではなく、日本民族の精神の源として扱われたのである。
(明治憲法は、法律の留保を伴いながらも信仰の自由を明記している)
軍国主義の背景として戦争正当化根拠とされた神道に、強い嫌悪感を人々が持ったのである。
GHQ統治下の宗教法人令により、国有とされた神社の不動産はそれぞれに返還され、神社は国家と切り離された。
GHQは信教の自由を公認し、日本人の自由な選択として神道が自然消滅することを望んだ。
それでも神道が存続したのは、その根底に何かを「かしこむ」という古来からの素朴な信仰心があるからである。
以上です。